久保田藩世嗣
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元和7年7月7日(1621年8月24日)、江戸にて元服し彦次郎義直と名乗る。同年11月14日(1621年12月26日)、将軍徳川秀忠に御目見し、義宣の嫡子として公認される。 義宣が義直を北家から引き上げたのは、この年で義宣は52歳になり、いまだ子が無く健康面から今後も実子は望めず、無嗣改易が脅威として迫っていたためである。近親で異姓の他家の養子になっていないのが義直だけであったことも要因と考えられている。 しかし嫡子としての義直は、義宣には頼りなく見えることがあったらしい。例えば元和10年2月(1624年3月)に家臣・矢野憲重の跡式相続に絡み、義直が下した判断を重臣の梅津政景がわざわざ義宣に問い合わせ、義宣は正反対の判断を下している。また、寛永元年7月(1624年8月)、義宣が秋田から呼び寄せ義直の傅役とした岡本宣綱が、翌寛永2年2月(1625年3月)に病と称して帰国し、短刀で自傷して辞任するという一件もあった。義直が仏像の彫刻や仏書に傾倒し、宣綱の諌言に従わなかったためという説がある。
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