主要都市と地域の間の敵対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 15:29 UTC 版)
「イスパノアメリカ独立戦争」の記事における「主要都市と地域の間の敵対」の解説
詳細は「王党派 (イスパノアメリカ)(英語版)」を参照 主要都市と地域の間の敵対は戦争で重要な役割を果たした。中央となる権威が消え、一部では現地副王の権威(ヌエバ・グラナダやリオ・デ・ラ・プラタ)も消えたことはイスパノアメリカの多くの地域でのバルカン化を招いた。スペイン帝国の置換先となる政治実体は明らかではなく、スペイン人であるとの民族認識を置換できる民族意識は存在しなかった。1810年に創設されたフンタでは第一にスペイン人であるとの意識にアピールして、フランス人の脅威と対向させた。第二に米州人としての意識にアピールして、イベリア半島がフランスに奪われたことと対向させた。第三に主要都市や各県、パトリア(西: patria)への帰属意識にアピールした。多くの場合、フンタは県の独立をイベリア半島からも、元副王領や総督領の首都からも守ろうとした。そして、国王の下にあった時期と同じように、一部都市や県がほかの都市や県の格下に甘んじるべきかとの問題をめぐって、武装紛争が勃発した。この現象は南アメリカで特に顕著であり、また一部地域ではわざと敵対者と違う立場をとった。例えば、リオ・デ・ラ・プラタが1776年に副王領に昇格したとき、アルト・ペルーをペルー副王領から得たため、ペルーはリオ・デ・ラ・プラタと逆の立場、すなわち王党派の立場をとった。リオ・デ・ラ・プラタでフンタが設立されたことで、ペルーは戦争中にアルト・ペルーを正式に再支配することができた。
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