中立地帯の創設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/28 07:54 UTC 版)
しかし、どちらの国も、係争地域で戦争をすることを望まなかった。さらなる武力衝突を避けるために、合衆国将軍のジェームズ・ウィルキンソン (w:James Wilkinson) と、スペイン軍のシモン・デ・エレラ中佐の、係争地域の二人の軍司令官は、1806年11月5日、両国政府によって境界が正式に設定されるまで、ここを中立地帯とする協定に署名した。この協定は両国から手厚く尊重されたが条約ではないので、どちらの政府にも批准されなかった。この協定におても、中立地帯の境界は完全には明示されなかった。 アロヨ・オンドとサビーン川は、それぞれ東境界線と西境界線と名付けられた。南の境界は間違いなくメキシコ湾で、北の境界はおよそ32度線であったと思われる。そのためこの地域は、現在のルイジアナ州のデソト郡、サビーン郡、ナカタシュ郡、ヴァーノン郡、ラピッズ郡、ボールガード郡、アレン郡、カルカシュー郡、ジェファーソンデーヴィス郡、キャメロン郡を包括していた。 協定でカバーされた地域は、両国の兵士とも立ち入り禁止であると宣言された。また協定は、中立地帯への入植も許可しないことを規定した。それにもかかわらず、ニュースペインと合衆国領土双方から入植者たちが移住をし始めた。 アメリカ人入植者の中には、スペイン政府から土地の払い下げ("Rio Hondo claims" と呼ばれている)を受ける者まで現れた。他の者らは法的根拠なく不法占拠をした。この無法のエリアはまた、追放者、脱走兵、政治難民、金持ちになりたい者、そしてさまざまな犯罪者を惹き付けた。最終的にハイウェイマン(追いはぎ、盗賊)らは、旅行者たちから金品を巻き上げやすくするため、また、米国やスペインの軍隊から逃れるため、結託して前哨基地を設置運営したり、スパイ網を組織するほどにまでになった。1810年とさらに1812年、両政府は無法者征伐のため、この地域に共同の軍事遠征隊を派遣した。
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