中山王府の記録
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 16:13 UTC 版)
「宮古島島民遭難事件」の記事における「中山王府の記録」の解説
琉球中山王府で記録したものをここに記す。宮古島69人台湾で遭難、12人生残り、福州府に護送せられ帰唐船へ乗付那覇に帰着した中の二人、仲本筑登之(仲本加奈)、島袋筑登之(島袋次良)よりの聞書を示す。 明治4年10月18日、宮古島(2隻)と八重山(2隻)の船計4艘は那覇港から出帆した。船は琉球近海の慶良間島に到着、そこで風や潮の状態をみて、29日同所出発、11月1日、大風が吹いて、宮古島行の一つの船は漂流した。11月5日、台湾の山を発見した。6日上陸開始したが、上陸時3人は溺死した。64人が上陸して、人家を求めて徘徊した。漢族二人に逢い、人家の有無を質問したら、西方にいけば大耳の人あって首を切るので、南方にいけと教えた。両人の案内にて南方に向かう。両人衣服類は奪い取る。悪人の同類が多いだろうと落胆した。両人の教えに従い石の洞窟に泊まった。両人は盗賊の類と思い、別れて西に転じた。(中略)7日、南方に人家15、6軒あり。人あり小貝に飯を盛り66人に与えた。しかし残りの所持品を奪った。投宿す。8日朝、現地人は宮古人に向かって、我ら猟にいかんとす、ここに待てとあるが、疑惑を生じ、散りじりになる。人家5、6軒あり、一人の老翁が、琉球なら那覇か首里かと問う。この人は危害は加えなかったが、その後に、30人くらいが追ってきて、宮古人の簪、衣服を剥ぎ取る。1、2人ずつ門外に追い出し、刀をもって首をはねた。(以下略、生存者が那覇港に帰るまでのことが記載されている。)
※この「中山王府の記録」の解説は、「宮古島島民遭難事件」の解説の一部です。
「中山王府の記録」を含む「宮古島島民遭難事件」の記事については、「宮古島島民遭難事件」の概要を参照ください。
- 中山王府の記録のページへのリンク