中央アジア・インドを支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/12 09:04 UTC 版)
「エフタル」の記事における「中央アジア・インドを支配」の解説
410年からトハリスタン、続いてガンダーラに侵入(彼らはインド・エフタルとして知られるようになる)。 425年、エフタルはサーサーン朝に侵入するが、バハラーム5世(在位:420年 - 438年)により迎撃され、オクサス川の北に遁走した。 エフタルはクマーラグプタ1世(英語版)(在位: 415年頃 - 455年)のグプタ朝に侵入し、一時その国を衰退させた。また、次のスカンダグプタ(英語版)の治世(435年–467年もしくは455年–456年/457年)にも侵入したが、スカンダグプタに防がれた。 サーサーン朝のペーローズ1世(在位: 459年–484年)はエフタルの支持を得て王位につき、その代償としてエフタルの国境を侵さないことをエフタル王のアフシュワル(アフシュワン)に約束したが、その後にペーローズ1世は約束を破ってトハリスタンを占領した。アフシュワルはペーローズ1世と戦って勝利し、有利な講和条約を結ばせ、ホラーサーン地方を占領した。484年、アフシュワルはふたたび攻めてきたサーサーン朝と戦い、この戦闘でペーローズ1世を戦死させた。 エフタルは高車に侵攻し、高車王の阿伏至羅の弟である窮奇を殺し、その子の弥俄突らを捕えた。 508年4月、エフタルがふたたび高車に侵攻したので、高車の国人たちは弥俄突を推戴しようと、高車王の跋利延を殺し、弥俄突を迎えて即位させた。 516年、高車王の弥俄突が柔然可汗の醜奴(在位: 508年–520年)に敗北して殺されたため、高車の部衆がエフタルに亡命してきた。 ガンダーラ・北インドを支配したエフタルでは、その王ミヒラクラ(英語版)(Mihirakula、在位512年–528年頃)の代に、大規模な仏教弾圧が行なわれた(インドにおける仏教の弾圧#ミヒラクラ王の破仏参照)。 520年、北魏の官吏である宋雲と沙門の恵生は、インドへ入る前にバダフシャン付近でエフタル王に謁見した。 523年、柔然可汗の婆羅門は姉3人をエフタル王に娶らせようと、北魏に対して謀反を起こし、エフタルに投降しようとしたが、北魏の州軍によって捕えられ、洛陽へ送還された。 北魏の太安年間(455年 - 459年)からエフタルは北魏に遣使を送って朝貢するようになり、正光(520年 - 525年)の末にも師子を貢納し、永熙年間(532年 - 534年)までそれが続けられた。 533年頃、マールワー王ヤショーダルマン(英語版)がエフタル王ミヒラクラを破る。ミヒラクラはカシミールに逃亡した。 546年と552年に、エフタルは西魏に遣使を送ってその方物を献上した。
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