不吉の太刀として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 05:42 UTC 版)
以来北条得宗家の重宝であったが、元弘の乱によって北条高時自刃の際に新田義貞の手に渡った。しかし、義貞も後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏と争うことになり、足利方の斯波高経によって討ち取られた際に、鬼丸も高経に鹵獲された。また、後に尊氏と対立した高経は、尊氏に降伏する際に本作を献上したとされている。 以後足利家の重宝として伝来し、その後は足利義昭より織田信長を経て豊臣秀吉へ伝わったという説と、直接秀吉へ贈られたという二説がある。いずれにせよ秀吉の所有となったが、彼は無類の日本刀好きで知られていたにもかかわらず、本作と同じく天下五剣として知られる童子切安綱と共に本阿弥光徳に預けてしまう。一説には、これまでの所持者が戦に敗れ、その一族も没落してきたことから、その縁起の悪さを忌避したとされている。大坂の陣の後に、徳川家のものとなったが、徳川家康と徳川秀忠も共にそのまま本阿弥家に預けたという。 その後、後水尾天皇に皇太子が誕生した節に御所に献上されたが、程なく皇太子が夭折したことで「不吉な太刀である」と噂され、本阿弥家に返却されたという。江戸時代を通して、京都の同家によって保管されていたが、徳川8代将軍徳川吉宗は、本阿弥家に命じて江戸城に持参させたという記録がある。吉宗の時代に本阿弥家に命じて編纂させた名刀の目録である『享保名物帳』にも、本作が収録されている。また、松平定信が編集した『集古十種』所収で、同書には「本阿弥三郎兵衛代々所守護」とある(本項の画像参照)。
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