不同舎での指導
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 00:10 UTC 版)
小山の大きな功績として、明治20年(1887年)に十一会から発展解消した画塾「不同舎」を主宰し、後進の育成に努めたことが挙げられる。講師には、美術講義の柳(高橋)源吉(高橋由一の子)、構図法の本多錦吉郎、技術指導の小山と浅井忠、その他松井昇らを擁し、工部美術学校の洋画部が廃止され洋画を学ぶ機会を失いかけていた画学生に歓迎された。塾生も最盛期には300人を数え、中村不折、満谷国四郎、鹿子木孟郎、青木繁などを輩出する。小山は、個々の資質に合わせた指導方法を採り、自らの作品から弟子達が影響を受けないようにするため、自筆の油彩画を見せることは殆どなかったと言う。「不同舎」の名は塾の近所本郷区団子坂界隈の不動坂に由来するとも言われるが、むしろ弟子たちの個性を尊重した小山の指導理念を示したものだといわれる。 小山は後進の育成に力を注いだため、現存する油彩画は少ないが、鉛筆による風景写生図は多く残されている。これらは、不同舎の門弟たちの多くが回想している小山の口癖「諸君は三本も四本も無駄な線を引くが、よく決心してタンダ一本断然やるべし」の言葉通り、線による対象物の正確な描写を重視し、線を洗練させていく小山の姿勢を雄弁に物語っている。画風は、フォンタネージの伝えたバルビゾン派の影響が残り、自作に漢籍に由来する難解な画題をつけるのを好んだという。小山の作品を知る機会がなく、実作品に接する機会も少なかったという門弟たちの回想から、小山の洋画家としての力量を疑問視する者もあったが、現存する堅牢で精緻な画風を見れば的外れといえよう。
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