三重県立四日市南高等学校
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三重県立四日市南高等学校 | |
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三重県立四日市南高等学校(2009年)
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北緯34度57分4.5秒 東経136度35分28.4秒 / 北緯34.951250度 東経136.591222度座標: 北緯34度57分4.5秒 東経136度35分28.4秒 / 北緯34.951250度 東経136.591222度 | |
国公私立の別 | 公立学校 |
設置者 | ![]() |
設立年月日 | 1959年3月27日 |
創立記念日 | 2月1日 |
共学・別学 | 男女共学 |
課程 | 全日制課程 |
単位制・学年制 | 学年制 |
設置学科 | 普通科 普通科数理科学コース |
学科内専門コース | 数理科学コース |
学期 | 3学期制 |
学校コード | D124210050089 |
高校コード | 24106H |
所在地 | 〒510-8562 |
三重県四日市市大字日永字岡山4917番地
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外部リンク | 公式ウェブサイト |
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三重県立四日市南高等学校(みえけんりつよっかいちみなみこうとうがっこう)は、三重県四日市市に所在する公立の高等学校。通称「南高(なんこう)」または「四南(よんなん)」。
設置学科
- 普通科
- 数理科学コース
概要
三重県四日市市の南部丘陵地の一角、
1974年三重県立四日市高等学校(四高)との総合選抜制度(学校群制度)開始に伴い、四高と同一水準の生徒が入学。ほぼ互角の実績を残し、三重県北勢地区屈指の進学校として知られた。しかし、1995年に21年間に及んだ総合選抜制度の廃止後、学力最上位層が四日市高校に流れる傾向がみられる。
現在も文武両道を重んじ、課外講座を豊富に用意しているほか、部活動や学校行事も活発である。例年、入試の志願倍率が高い。四日市高校より現役志向が強く、既卒生の大学受験が四日市高校より少ないのが特徴[1][2]。
沿革
《主な出典:[3]》
- 1959年(昭和34年)
- 1960年(昭和35年)
- 2月1日 - 本校舎起工式を挙行。校章制定。この日を創立記念日と定める。
- 9月30日 - 新校舎(現在地)に移転。
- 1974年(昭和49年)3月16日 - 学校群制度の開始に伴い、四日市高校と入試総合選抜制度実施。
- 1994年(平成 6年) - 普通科に「数理科学コース」を新設。
- 1995年(平成 7年)3月14日 - 四日市高校との間に21年間続いた総合選抜制度廃止。
- 2008年(平成20年)10月25日 - 創立50周年記念式典挙行。
教育方針
- 勉学と運動を奨励して、豊かな人間性を備えた心身ともにたくましい生徒を育てる。
- 誠実・素直・勤勉の気風を養うと共に開拓者精神を培う。
- 人権を尊重し、差別のない明朗な気風を育てる。
- 個性を生かし、一芸一能を重んじ、才能の開発と発展につとめる。
- 品性を磨き国民性・社会性を身につけさせる。
校歌
- 校歌は谷川俊太郎作詞・武満徹作曲である[6][7]。谷川にとって初めて手がけた高校の校歌である[7]。
- 3番の歌詞に公害賛美ともとれる内容があったため[8][9][10]、谷川俊太郎自身の要望で1979年に一部歌詞が差し替えられた[6][7]。
- 音楽部員の校歌の歌声で朝の会が始まる。
交通
- 四日市あすなろう鉄道西日野駅より徒歩約5分。
- 電車の本数が少なく、四日市四郷高校、西日野にじ学園の生徒も利用するため、朝夕の車内は大変混雑する。
- 隣接する鈴鹿市や亀山市や桑名市からなどの遠距離通学者も多い。
学生生活
2003年度から教員・生徒の意向を取り入れ制服がブレザーに変わった[注釈 3]。部活動は、ワンダーフォーゲル部は2007年度インターハイで優勝、2008年度インターハイで2連覇を果たした。文化部では演劇部が県大会で1位(2001,03,05年)、1991年には音楽部が全国大会出場を果たすなどの記録を残している。また、箏曲部は2019年に県大会で優勝し8連覇を達成している。
主な出身者
- 秋山晋吾(歴史学者、一橋大学教授、東欧史研究会委員長)
- 石原正敬(衆議院議員、第5代三重県菰野町長、三重県議会議員)
- 井上裕之(第13代内閣府事務次官、内閣府審議官、内閣府政策統括官(経済社会システム担当))[11]
- 黒田忠広(半導体一筋、東京大学教授)
- 小関泰之(応用光学者、東京大学教授)
- 現代洋子(漫画家)
- 近藤淳也(はてな社長)
- 竹川佳成(情報工学者、公立はこだて未来大学准教授)
- 田中靖浩(公認会計士)
- 中川康洋(衆議院議員)
- 服部幸子(女優)
- 藤田健治(ビープラッツ創業者、同社長)
- 水野みか子(作曲家、音楽学者)[12]
- 森智広(四日市市長)
- 森政稔(社会思想学者、東京大学教授)
脚注
注釈
- ^ 当校の設置以前に、三重県が設置者である公立高等学校については1955年(昭和30年)4月1日付け三重県教育委員会告示第64号をもって正式名称が「三重県立」を冠する校名に変更されていた(従前は、占領軍三重軍政部の指示のもと県新学制実施協議会が定めた方針により、「立」の字が付かない「三重県○○高等学校」の名称[4])。
- ^ 同じ富洲原中学校旧校舎は、3年後に四日市南工業高等学校の開校時にも仮校舎として用いられた[5]。もとは1926年(大正15年)創立の富洲原町立実科高等女学校(前出の出典中では四日市市立実践女学校と記載)の建物。
- ^ なお、旧制服は映画『いずれの森か青き海』(監督:瀬木直貴)で使用されている。
出典
- ^ “令和5年大学等合格者数”. 三重県立四日市高等学校. 2024年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月16日閲覧。
- ^ “進路状況(令和5年度)”. 三重県立四日市南高等学校. 2024年6月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年6月16日閲覧。
- ^ “学校紹介 - 本校の沿革”. 三重県立四日市南高等学校. 2025年6月21日閲覧。
- ^ 三重県総合教育センター 編『三重県教育史 第3巻』三重県教育委員会、1982年3月30日、144-145頁。NDLJP:12286310/94。
- ^ 『三重県立四日市中央工業高等学校創立30周年記念誌』三重県立四日市中央工業高等学校、1991年10月26日、52頁。NDLJP:13135336/30。
- ^ a b 金子淳「公害展示という沈黙――四日市公害の記憶とその表象をめぐって」『静岡大学生涯学習教育研究』第13号、静岡大学生涯学習教育研究センター、2011年3月31日、13-27頁、doi:10.14945/00006719。26頁の注(3)を参照。
- ^ a b c 「過去に問う 未来への答え 谷川俊太郎さん作詞 四日市南高校歌 公害経て歌詞は変わる」中日新聞2017年1月1日付、4部三紀3ページ
- ^ 「亡くなった谷川俊太郎さん作詞 四日市南高校の校歌 歌い継ぐ」『NHK NEWS WEB』2024年11月19日。オリジナルの2024年11月19日時点におけるアーカイブ。2025年5月1日閲覧。
- ^ 「四日市南高校の校歌作詞、後に公害被害を理由に一部変更 谷川俊太郎さんの思い受け継ぎたい」『中日新聞 電子版』2024年11月19日。オリジナルの2024年11月19日時点におけるアーカイブ。2025年5月1日閲覧。
- ^ 「谷川俊太郎さんが「苦い反省」と悔いた校歌 公害問題で手がけ直し」『毎日新聞デジタル』2024年11月19日。オリジナルの2024年11月19日時点におけるアーカイブ。2025年5月1日閲覧。
- ^ 「毎日フォーラム・霞が関ふるさと記 三重県(上)」『毎日新聞デジタル』毎日新聞社、2018年4月10日。オリジナルの2024年11月30日時点におけるアーカイブ。2024年5月2日閲覧。
- ^ “関連サイト・同窓生”. 三重県立四日市南高等学校同窓会. 2024年6月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年6月21日閲覧。
関連項目
外部リンク
固有名詞の分類
- 三重県立四日市南高等学校のページへのリンク