三星の進出から戦時統合で丸栄へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 08:33 UTC 版)
「十一屋 (名古屋)」の記事における「三星の進出から戦時統合で丸栄へ」の解説
当店と広小路通を挟んだ向かい側に、京都で丸物百貨店を経営していた中林仁一郎が、地元資本と合弁で株式会社三星を1937年(昭和12年)9月に設立して、1939年(昭和14年)5月20日に地上3階地下2階、売場面積11,345m2の百貨店を開設したため、栄町地区に3百貨店が鼎立する状況が生まれた。 しかし、第2次世界大戦の勃発を受けた戦時体制強化の一環として、1942年(昭和17年)5月に「百貨店整理統合要項」が政府から発令され、百貨店は現在売場面積を約30%縮小して店舗の建物を供出するよう求められる状況が生じたため、競争相手だった三星と対等合併して、1943年(昭和18年)8月27日に新資本金310万円の株式会社丸栄を設立することになり、江戸時代初期から続いた十一屋としての歴史に終止符を打つことになった。 合併後の丸栄の本社は当店に置かれ、社長には三星の中林仁一郎が就任し、当店側からは角田鋭彦が専務で小出篤三が常務に就任している。 なお、この三星との合併は配当を出している企業と無配当だった企業との対等合併である。
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