三星城落滅のころとは? わかりやすく解説

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三星城落滅のころ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 15:42 UTC 版)

三星城」の記事における「三星城落滅のころ」の解説

天正7年1579年4月下旬延原景光率い宇喜多家軍勢茶臼山城など拠点落とし後藤勝基守り拠点1つであった倉掛山目指した。 一方三星城にいた後藤家安藤相馬難波利介、柳澤太郎兵衛らは倉掛山に来る宇喜多家軍勢大軍であることを知り軍議開き一計を廻らした。倉掛山押し寄せる敵を前後から挟撃することにし、後藤久元、小坂田吉詮、下山正武、浦上景行の4人を倉掛山援軍として差し向けた。4人は手勢連れ荒木田深山に潜み宇喜多家軍勢背後回った援軍送ってから3日過ぎないうちに宇喜多勢は三海田現在の美作市栄町)に押し寄せた。まるでが波を立て勢いであったという。4人はそれより先に倉掛山入城し宇喜多勢を迎え撃った前後より攻撃を受け宇喜多勢は佐瀬まで退いた。それを4人が追討景光郎党17騎を討ち取った後藤久元は景光切り合い景光深手を負わせた。宇喜多勢は位田鳥貝山まで退いた後藤久元は景光打ち漏らしたのを悔しがった。後藤勢は倉掛の城に火をかけ撤退した宇喜多勢は鳥貝山まで退いてからすぐに、4人がいない三星城攻め寄せた。しかし、4人が三星城戻り戦い宇喜多勢を退けた宇喜多勢は鳥貝山に退却したその後景光和田助四郎相談し鳥貝山を勝間という名前にして籠城した。そのうち宇喜多直家のもとから西尾文五郎加勢にきた。景光湯郷村長光寺住職招きいれ、後藤家内応する者を探すように頼んだ。そして、住職親し安藤相馬内応することになった景光大軍をもって三星城に再び攻め込んだ。兵が少ないながら後藤勢はよく耐えた。戦い半ばさしかかった頃、ついに安東相馬城内より火をかけ裏切りをした。それを合図宇喜多勢はより激しく攻めた西の丸130騎で守っていた難波利介と柳澤太郎部衛は城を出て荒木田退いた。しかし、宇喜多勢に追討され戦っていたが、手傷数多く負っていたのでこれまで思い両名とも自刃した。柳澤太郎部衛83歳、難波利介47歳であった大将勝基は郎党27騎を引きつれ城を落ちていった。しかし、入田中山村辺り追ってきた宇喜多勢の大軍戦い、なお落ち延び長内村の隠坂まで来て自害した

※この「三星城落滅のころ」の解説は、「三星城」の解説の一部です。
「三星城落滅のころ」を含む「三星城」の記事については、「三星城」の概要を参照ください。

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