三大妖怪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/12 07:11 UTC 版)
文化人類学者、民俗学者の小松和彦は、今日では鈴鹿山の大嶽丸の名はあまり知られていないものの、かつての京の都では大江山の酒呑童子と並び称されるほどの妖怪・鬼神であったとし、もっとも恐ろしい妖怪はどれか「もし中世の人びと、それも都人にたずねたら、次の三つの妖怪の名があがるだろう」として酒呑童子、玉藻前、大嶽丸を挙げている。 小松は、三大妖怪が傑出した妖怪とみなされた背景として、これらの妖怪に対して特別の扱いがあったのではないかと見ている。小松の挙げた三大妖怪は、退治された後には支配者(京の天皇を中心とする民衆)の「宝物」であるため、支配者の権力を象徴する「宝物倉」に遺骸や遺骸の一部が納められたという共通点を述べている。この宝物倉は藤原頼通が建立した宇治の平等院の宝蔵である。 また、鬼の首や狐の遺骸を宝物倉に納めるのは、魚拓や剥製と同様の考えに基づくと戦勝の記念品と解釈でき、中世において退治された数ある妖怪の内で宝蔵の所有者がこの三妖怪の霊力に勝る武力・知略・神仏の加護を示すために、宇治の宝蔵に収める価値のあるほどの大妖怪だったと考察している。
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