一乗院門跡として
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天文6年(1537年)11月13日、第12代将軍・足利義晴の次男として、京都で誕生した。母は近衛尚通の娘・慶寿院。幼名は千歳丸(ちとせまる)。 天文9年(1540年)7月、千歳丸が3歳の時、父の義晴は南都の興福寺一乗院に入室させる契約を行った。兄に嗣子である義輝が既におり、跡目争いを避けるため、嗣子以外の息子を出家させる足利将軍家の慣習に従う形となった。また、寺社との結びつきを強める目的があり、この興福寺は大和一国の国主(大和の守護でもあった)で、将軍の若君が入室することによって、将来的に興福寺をはじめとする大和の寺社勢力が将軍家を扶助する体制を構築しようとしたとされる。 天文11年(1542年)9月11日、千歳丸が6歳の時、寺社奉行の諏訪長俊が義晴の使者として興福寺に向かい、将軍の「若君」が11月に一乗院門跡・覚誉の弟子として入室するので、よく世話するようにと伝えた。興福寺は寺領に段銭をかけ、その費用を調達した。 11月20日、千歳丸は伯父・近衛稙家の猶子となって、興福寺の一乗院に入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名を覚慶と名乗った。覚慶は近衛家の人間として、一乗院門跡を継ぐ修行を行った。 その後、覚慶は一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進し、何事もなく20数年を興福寺で過ごした。このまま、覚慶はやがて興福寺別当となり、高僧としてその生涯を終えるはずであった。
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