一乗院門跡としてとは? わかりやすく解説

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一乗院門跡として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 18:30 UTC 版)

足利義昭」の記事における「一乗院門跡として」の解説

天文6年1537年11月13日第12代将軍足利義晴次男として、京都誕生した。母は近衛尚通の娘・慶寿院幼名千歳丸(ちとせまる)。 天文9年1540年7月千歳丸3歳の時、父の義晴南都興福寺一乗院入室させる契約行った。兄に嗣子である義輝が既におり、跡目争い避けるため、嗣子以外の息子出家させる足利将軍家慣習に従う形となったまた、寺社との結びつき強め目的があり、この興福寺大和一国国主大和守護でもあった)で、将軍若君入室することによって、将来的興福寺はじめとする大和寺社勢力将軍家扶助する体制構築しようとしたとされる天文11年1542年9月11日千歳丸6歳の時、寺社奉行諏訪長俊が義晴使者として興福寺向かい将軍の「若君」が11月一乗院門跡覚誉弟子として入室するので、よく世話するようにと伝えた興福寺寺領段銭をかけ、その費用調達した11月20日千歳丸伯父近衛稙家猶子となって興福寺一乗院入室し(『親俊日記』『南行雑録』)、法名覚慶名乗った覚慶近衛家人間として、一乗院門跡を継ぐ修行行ったその後覚慶一乗院門跡となり、権少僧都にまで栄進し、何事もなく20数年興福寺過ごしたこのまま覚慶はやがて興福寺別当となり、高僧としてその生涯終えるはずであった

※この「一乗院門跡として」の解説は、「足利義昭」の解説の一部です。
「一乗院門跡として」を含む「足利義昭」の記事については、「足利義昭」の概要を参照ください。

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