ヴィテズの強制収容施設
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「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「ヴィテズの強制収容施設」の解説
ヴィテズ映画館は、「映画館」「文化センター」あるいは「労働者の大学」と呼ばれる複合娯楽施設の一部であった。戦時中、この施設にはヴィテシュカ旅団の司令部が置かれていた。その一部(地下室および劇場)は1993年4月16日以降、様々な年代のボシュニャク人、200名から300名程度を拘束するために使用された。施設は、憲兵を含む、多数のクロアチア防衛評議会の兵士によって護衛されていた。収容者は期間中たびたび暴行を受け、穴掘りへ連行され、一部は戻らなかった。 衝突の初期の数日間、ヴィテズ家畜病院にも収容施設が設置された。40名程度のボシュニャク人が地下室に収容され、全体で70名程度がこの施設に収容されていた。看守は収容者に食料や飲料を全く与えず、代わりに収容者の家族が食料を差し入れることを許可した。収容者はクルシュチツァ(Krušćica)での穴掘りに連行され、2名が死亡した。 ドゥブラヴィツァ(Dubravica)小学校は重要な収容施設として機能し、1993年4月16日から30日にかけて、300名を超えるボシュニャク人を収容した。この間に多数が死亡あるいは負傷し、穴掘りで肉体的な虐待や侮辱を受けた。コルディッチ裁判にてクロアチア人兵士であったアント・ブレリャシュ(Anto Breljaš)は証人として出廷し、小学校には男性、女性、子どもを含む350名のボシュニャク人が収容されていたと証言した。女性および子どもは教室に、男性は体育館にと、それぞれ分離して収容された。兵士は地下室に収容され、うち15名が殺害された。体育館では空気が欠乏し、食料も不十分で、医療措置が施されることは全くなかった。収容者は虐待を受け、人間の盾として使用されたり、周辺一帯やクラ(Kula)などで穴掘りを強いられた。証人はこうした収容者に対する待遇に抗議したという。
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