ヴィテズの虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)
「ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「ヴィテズの虐殺」の解説
1993年4月16日の早朝、5時45分から6時ごろにかけて、ヴィテズおよびクルシュチツァ(Kruščica)のボシュニャク人地区はクロアチア人勢力の砲撃を受けた。次第に攻撃は激化し、口径の異なる多数の迫撃砲が用いられた。これはヴィテズ周辺の渓谷地域では初の大規模攻撃であった。これはイギリス軍の専門家およびボスニア・ヘルツェゴビナ共和国軍には衝撃であった。クロアチア防衛評議会の兵士は迷彩服でヴィテズの市街地に現れ、ボシュニャク人の市民を拘束し住居にて殺害した。ヴィテゾヴィ部隊のアント・ブレリャシュ(Anto Breljaš)によると、クロアチア防衛評議会ヴィテシュカ旅団およびヴィテゾヴィ部隊はスタリ・ヴィテズを攻撃したが、部隊としてアフミチの虐殺には関与しておらず、しかし数名の個別の兵士がアフミチに関与した可能性はあるとしている。しかし、クロアチア人の避難は攻撃開始のわずか数時間前の出来事であり、村のボシュニャク人たちは攻撃を事前に察知することはなかった。付近の工場に設置された高射砲を用い、5時30分から砲撃が始まった。家屋に手榴弾が投げ込まれ、中にいた住人は拘束されて暴行を受けた。ボシュニャク人の家屋はほぼすべて焼き払われ、少なくとも8名が殺害された。村は爆発物および火炎によって破壊され尽くした。 ヴィテズ自治体全域で合わせて172名のボシュニャク人が殺害され、5千人が放逐され、1200人が拘束された。420棟の家屋と3つのモスク、2つのムスリム神学校、2つの学校が破壊された。
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