ワチェモケット
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/05 04:34 UTC 版)
「イーストプロビデンス (ロードアイランド州)」の記事における「ワチェモケット」の解説
南北戦争に先立つ数十年間、ワチェモケット・ポイントは恐らく住人数百人の農業と漁業の地帯に過ぎなかった。ワチェモケットは繁栄するプロビデンス市の対岸に位置していたので、プロビデンスが拡大することの恩恵を受けていた。さらに重要なことはプロビデンスとの間のシーコンク川に2つの橋が架かり、行き来が容易になったことだった。1869年代までにこのワシントン橋とセントラル橋の通行料が廃止されてワチェモケットの成長に大きな刺激となり、眠ったような漁業の村から1862年に自治体化されたイーストプロビデンスの町の重要な中核に変わって行った。ワチェモケットに入ってきた最初の事業はここを通る多くの旅人のために建てられた宿屋だった。ワチェモケットの住人は1870年代初期までに自分達の図書館を持った。最初はその組織者達が婦人図書館協会と名付けたが、1885年にワチェモケット自由公共図書館と名前を変えた。1880年代半ばにはワチェモケットが商業と住宅の中心になっていたが、さらに政治の中心にもなった。町役場がラムフォードからワチェモケットの中心部に遷されたので、容易に接することができるようになった。政治指導者はトーントン・アベニューに沿った土地を11,500ドルで購入し、1889年には2階建てのレンガ造り建物が開館した。同年、イーストプロビデンス警察署が町役場内にその事務所を構えた。1900年頃から世界恐慌の始まった1930年まで、プロビデンス、フォールリバー、ニューベドフォードおよびポルトガルから多くのポルトガル人移民がイーストプロビデンスに入ってきた。1905年までに町には400人以上のポルトガル人がおり、州内でもその多さは3番目になった。ポルトガル人は他の少数民族と同様に、主に仕事を求めてイーストプロビデンスに来ていた。ワチェモケット地区には多くの雇用機会があり、多くの移民が入った。
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