ワイタンギ条約の締結
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 08:36 UTC 版)
「ニュージーランドの歴史」の記事における「ワイタンギ条約の締結」の解説
ヨーロッパの投資家たちは、ニュージーランドが遠くない未来にイギリスに併合されるだろうという予測の下、植民地化のための活動を1820年代より徐々にすすめていた。1825年には最初の植民地会社がロンドンに設立され、ニュージーランドへの移民斡旋をはじめるようになった。エドワード・ギボン・ウェークフィールドが1838年にニュージーランド会社を設立するとその流れは加速した。マオリたちは戦争のためのマスケット銃獲得のため、土地取引に応じ、ニュージーランド国土の約1/3にあたる2000万エーカー以上の土地がニュージーランド会社の手に渡ったとされている。 イギリス政府の依頼を受けて1837年から実地調査をしていたウィリアム・ホブソンはこうした状況を政府に報告した。民間会社による組織的な植民活動、マオリ部族間での激化する争いのほか、イギリスの他にニュージーランドの併合を狙うフランスの動きなどを背景として、イギリス政府はマオリ首長らから彼らの土地をイギリスに譲渡するよう交渉する必要があると考えるようになった。1840年1月29日、再度政府から命を受けてニュージーランドを再訪したホブソンは、同年2月5日、ワイタンギのバズビー邸宅にマオリを呼び集め、「イギリス女王はこの地を侵略せんとする外国勢力からマオリを保護する用意があるが、イギリス領土以外ではその権威が及ばない。そのため、一同がこの条約に署名することを希望している」と前置いて持参した条約3条(ワイタンギ条約)を読み上げた。マオリ首長たちはこれに対して賛成派、反対派に分かれて大いに議論したが、当日の結論は出ず、翌日1840年以前の土地取引について再度見直すことを条件に45人の首長が条約に署名した。ホブソンはその後南北両島の512人の署名を集めることに成功し、1840年5月12日、スチュアート島を含むニュージーランド全土がイギリス領となったことを宣言した。
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