ローヒラー族、デリーを占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/18 13:37 UTC 版)
「シャー・アーラム2世」の記事における「ローヒラー族、デリーを占領」の解説
マハーダージー・シンディアが失脚した結果、シャー・アーラム2世は孤立し、故ムハンマド・シャーの妃マリカ・ウッザマーニーは陰謀を企てていた。彼女は1754年にシャー・アーラム2世の父アーラムギール2世の即位に際し、彼女の継子アフマド・シャーがガーズィー・ウッディーン・ハーンに廃位・盲目にされたことを恨みに思っており、そのためシャー・アーラム2世を廃してアフマド・シャーの息子ビーダール・バフトを帝位につけようと考えた。 その一方、ナジーブ・ハーンの孫でローヒラー族の族長グラーム・カーディル・ハーンもまた、1778年に帝国の将軍ミールザー・ナジャフ・ハーンがローヒラー族の砦を落として略奪したことで、同様にシャー・アーラム2世に恨みを持っていた。 これらのことから両者の利害は一致し、マリカ・ウッザマーニーはグラーム・カーディル・ハーンと結び、グラーム・カーディル・ハーンは彼女から協力金として120万ルピーの支払いを受けている。 1788年7月18日、グラーム・カーディル・ハーン率いるローヒラー族の軍はデリーを占領し、デリー城内とその周辺に4,000の部下を配置して、皇帝と皇子の武器を奪った。その後、7月30日にシャー・アーラム2世を廃し、ビーダール・バフトを「ジャハーン・シャー」の名で帝位につけ、自身の傀儡とした。 その後、アフガン兵は宮殿から財宝を略奪し、宦官を嬲り殺して女官を拷問にかけたため、8月11日にシャー・アーラム2世が不満を言うと、グラーム・カーディル・ハーンは彼を盲目にした。翌12日、シャー・アーラム2世がグラーム・カーディル・ハーンをののしると、彼は皇帝の目をえぐりだし、その3人の皇子の目をつぶした。 無論、ジャハーン・シャーやその母マリカ・ウッザマーニーも例外ではなく、協力関係にあった彼らもグラーム・カーディル・ハーンに財宝を引き渡さなければならなかった。マリカ・ウッザマーニーが「これ以上引き渡す財宝はない」と言うと、グラーム・カーディル・ハーンは後宮に部下を送り込み、女性の衣服を剥ぎ取り、床を掘り起こし、壁を破壊してまで財宝を探させた。 しかし、2ヶ月後、グラーム・カーディル・ハーンの軍に食糧不足が起こり、そのうえマハーダージー・シンディアの率いる軍が近づいてきたため、10月2日に彼は略奪した2億5000万ルピーもの財宝とともにデリーから撤退した。その翌日、シンディア家の軍がローヒラー族の軍と入れ替わる形でデリーに入り、皇帝を保護した。 その後、ローヒラー族の軍は追撃をうけて次々に捕えられ、奪い返された財宝は帝国に返された。1789年3月にグラーム・カーディル・ハーンも捕えられたのち殺害され、シャー・アーラム2世がのぞんだようにその眼球、鼻、耳がデリーに届けられた。 このように、帝国は常に北インドの有力者に左右され続け、マラーターの勢力下でなんとか存続することができた。
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