ロベルタ・リードのその後
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「アリス・ベタリッジ」の記事における「ロベルタ・リードのその後」の解説
アリス・ベタリッジにブライユ式点字の読み書きを教えた教師ロベルタ・リードは、アリスが学校を去った後も歴史、地理、算数、タイプライター、初歩的なフランス語などを生徒たちに教えながら、障害者の待遇や権利の改善を求める活動を行った。アリスの記事を書いたジャーナリストC.A.ジェファーソンが1911年にその記事で指摘していた通り、障害児童に対する教育は任意であって彼・彼女らが教育を受けることを保証する法律はオーストラリアにはなく、ようやく障害児教育が義務化されたのは1944年になってからだが、この法律を起草したのはニューサウスウェールズ州初の視覚障害者議員デビッド・ハンター(David Hunter)で、リードの元・教え子であった。ダーリントンの学校は第二次世界大戦の最中に軍に接収され、生徒たちは家に戻されるかストラスフィールドの学校に一時的に預けられた。戦争終結後の1946年、協会はワールンガWahroongaに盲学校を設立し、ロベルタ・リードを校長に任命した。1948年アリスとヘレン・ケラーが対面した場所はまさにリードが校長を務めるワールンガ盲学校であった。同年、校長の職を退いたリードは、オーストラリアにおける盲児教育の第一人者として協会のコンサルタントを務め続け、アリスの永逝から2年後の1968年10月19日にローズビル(Roseville)の自宅で逝去した。 RIDBC(視・聴覚障害児のための王立協会)は運営している聴覚障害児のための幼稚園(Preschool)を「ロベルタ・リードプリスクール」と名付けている。ロベルタ・リードプリスクールは、聴覚障害の子供たちの就学前にオーストラリア手話(Auslan)で英語表現ができるバイリンガル養成プログラムを実践している。
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