ロシア・ソビエト連邦時代の音楽
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「カザフスタンの音楽」の記事における「ロシア・ソビエト連邦時代の音楽」の解説
「ソビエト連邦の音楽」も参照 ロシアがカザフスタンに与えた音楽的な影響には大きく分けて二つある。1つ目は、オペラの舞台を完備した歌劇場やヨーロッパの音楽を学ぶ音楽院などの音楽を学ぶ研究所を設立したことである。2つ目は、これらの研究所においてカザフスタンの伝統音楽を学問的な音楽構造へと組み込もうとしたことである。ロシア帝国時代とソビエト連邦時代に管理下に置かれたことで、カザフスタンの民謡や伝統音楽はロシア民族音楽(英語版)や西欧の音楽と結びついた。20世紀以前、カザフスタンの民族音楽は作曲家、音楽評論家、音楽学者などを含む民族学者研究チームにより収集、研究が行われた。19世紀前半、カザフスタンの音楽は直線の譜面に記述された。この時代の作曲家の何人かはカザフスタンの民謡にロシアスタイルのクラシック音楽を取り込んだ。 しかし、カザフ人自身は1931年まで自分たちの音楽を譜面に記述することはなかった。その後、ソビエト連邦の一部として、カザフスタンの民俗文化は政治的、社会的不安をかき消すための鎮静剤としての役割を担ったものとして奨励されるようになった。結果、カザフスタンの民族音楽から派生した当たり障りの無い音楽が作られるようになった。1920年、ロシアの民族学者アレクサンドル・ザタエヴィチ(英語版)はカザフスタンの民族音楽のメロディーとその他の音楽的要素を音楽作品としてつくり上げる事業を始めた。この事業は1928年に始まり1930年代に大きな進展を見せ、フレットや弦の数の増加によってカザフスタンの伝統楽器はロシアスタイルの演奏へと取り入れられることとなった。その後すぐに、このようなスタイルの現代的な交響楽団の演奏はカザフスタンの音楽家にとって民俗音楽を公式の場で演奏する唯一の方法となった。カザフスタンの「民俗音楽」は愛国的、プロフェッショナリズム、発展などの要素により社会主義的な「民族音楽」へと変貌することとなった。
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