ロイヒリンとの論争
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「ヨハンネス・プフェファーコルン」の記事における「ロイヒリンとの論争」の解説
1511年からタルムードやカバラーを擁護したロイヒリンとプフェファーコルンは論争を始めた。 論争は国際的なものとなり、エラスムスたち人文主義者はロイヒリンを支持し、パリ大学神学部はプフェファーコルンを支持した。論争は、ドミニコ会とユマニスト(人文主義)との論争ともなった。 ただし、両者とも反ユダヤ的であるという点では同じであり、ロイヒリンはプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人の精神のあり方をそのままに、嬉々として不敬の復讐に打ってでた」と非難しており、また論争以前の1505年の『回状』でユダヤ人は日々、イエスの御身において神を侮辱し冒涜している、イエスを罪人、魔術師、首吊り人と呼んで憚らず、キリスト教徒を愚かな異教徒と見下していると説教している。 また、ロイヒリン支持者でカトリック教会を激しく批判した人文主義者のフッテンもプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで、「プフェファーコルンの両親はユダヤ人だった。彼自身、どんなにその恥辱の肉体をキリストの洗礼水に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない」と批判した。 デジデリウス・エラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人のキリストを相手に猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良の貢献は、みずからキリスト教徒になったと偽善的に言い張ることによって、キリストの神性を裏切ってみせることなのだ」と批判した。エラスムスは改宗ユダヤ人であったともいう。 プフェファーコルンはロイヒリンをHandspiegel (Mainz, 1511)で甚だしく攻撃した。ロイヒリンは皇帝に不平を伝え、プフェファーコルンが出版したBrandspiegelに対してAugenspiegelで反論した。1513年6月、皇帝によって論争は停止された。 しかしプフェファーコルンは1514年にもSturmglockでユダヤ人とロイヒリンを批判した ロイヒリンとの論争では、プフェファーコルンはロイヒリンに傾倒する若いユマニストが書いたEpistolæ obscurorum virorumで批判されたため、プフェファーコルンは反論した。 1520年、ローマ教皇レオ10世はロイヒリンのAugenspiegelを理由に有罪(異端)とし、プフェファーコルンはEin mitleidliche Klag (Cologne, 1521)で勝利を宣言した。
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