ロイヒリンとの論争とは? わかりやすく解説

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ロイヒリンとの論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 10:24 UTC 版)

ヨハンネス・プフェファーコルン」の記事における「ロイヒリンとの論争」の解説

1511年からタルムードカバラー擁護したロイヒリンとプフェファーコルンは論争始めた論争国際的なものとなり、エラスムスたち人文主義者ロイヒリン支持しパリ大学神学部はプフェファーコルンを支持した論争は、ドミニコ会ユマニスト人文主義)との論争ともなった。 ただし、両者とも反ユダヤ的であるという点では同じであり、ロイヒリンはプフェファーコルンに対して「彼は先祖たるユダヤ人精神あり方そのままに、嬉々として不敬復讐打ってでた」と非難しており、また論争以前1505年の『回状』でユダヤ人日々イエス御身において神を侮辱し冒涜している、イエス罪人魔術師首吊り人と呼んで憚らずキリスト教徒愚かな異教徒見下していると説教している。 また、ロイヒリン支持者カトリック教会激しく批判した人文主義者フッテンもプフェファーコルンがドイツ人でなかったことは不幸中の幸いで、「プフェファーコルンの両親ユダヤ人だった。彼自身どんなにその恥辱肉体キリストの洗礼に浸そうと、依然としてユダヤ人であることに変わりはない」と批判したデジデリウス・エラスムスも「プフェファーコルンは真のユダヤ人であり、まさにその種にふさわしい姿を公然とさらしている。彼の先祖たちは、たった一人キリスト相手猛り狂った。プフェファーコルンがその同宗者のために行うことのできる最良貢献は、みずからキリスト教徒になった偽善的に言い張ることによって、キリスト神性裏切ってみせることなのだ」と批判したエラスムス改宗ユダヤ人であったともいう。 プフェファーコルンはロイヒリンをHandspiegel (Mainz, 1511)で甚だしく攻撃したロイヒリン皇帝不平伝え、プフェファーコルンが出版したBrandspiegelに対してAugenspiegelで反論した1513年6月皇帝によって論争停止された。 しかしプフェファーコルンは1514年にもSturmglockでユダヤ人ロイヒリン批判した ロイヒリンとの論争では、プフェファーコルンはロイヒリン傾倒する若いユマニスト書いたEpistolæ obscurorum virorumで批判されたため、プフェファーコルンは反論した1520年ローマ教皇レオ10世ロイヒリンのAugenspiegelを理由有罪異端)とし、プフェファーコルンはEin mitleidliche Klag (Cologne, 1521)で勝利を宣言した

※この「ロイヒリンとの論争」の解説は、「ヨハンネス・プフェファーコルン」の解説の一部です。
「ロイヒリンとの論争」を含む「ヨハンネス・プフェファーコルン」の記事については、「ヨハンネス・プフェファーコルン」の概要を参照ください。

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