ルーズベルトに対する反論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 09:19 UTC 版)
「アル・スミス (ニューヨーク州知事)」の記事における「ルーズベルトに対する反論」の解説
スミスはルーズベルトの治世にルーズベルトによって疎外されているように感じた。二人は1932年の大統領候補指名争いでライバルだった。党大会ではルーズベルトに対する憎悪が非常に大きかったので、長い間の競争意識を脇に置いてウィリアム・マカドゥーやウィリアム・ハーストとの連衡を図り、数回の指名投票ではルーズベルトの指名阻止に動いた。この有りそうもない連衡は、スミスが妥協候補者を見付けることを拒否し自分を候補者に仕立てたときに壊れた。指名競争に敗れたスミスは渋々ながら1932年のルーズベルト選挙運動を助けた。ルーズベルトがそのニューディール政策で革新的な政策を実行し始めたとき、スミスは反対する側に回った。ニューディール政策は良き政府の進歩的理想概念を裏切るものであると考え、実業界との密接な協働を目標に据えた。1934年には他の著名民主党保守派と共に、アメリカ自由同盟の旗手になり、ルーズベルトのニューディール政策に対する政治的反対活動に焦点を当てた。1936年の大統領選挙ではアルフレッド・ランドン、1940年の大統領選挙ではウェンデル・L・ウィルキーと、共に共和党の大統領候補を支持した。 スミスがルーズベルトやそのニューディール政策と訣別したことは個人的な不満が動機になっていたが、スミスはその信念や政治では首尾一貫していた。ファイナンは、スミスが常に社会的流動性、経済的機会、宗教的寛容さおよび個人主義を信奉していたと主張している。
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