ユニセフでの活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 14:20 UTC 版)
帰国後の朝はアメリカ人に日本語を教えるなどの仕事は行っていたものの、張りのない日々を過ごしていたが、1949年(昭和24年)、知人を通してユニセフ初代駐日代表、マルガリータ・ストレーラーに紹介された。敗戦で困窮していた日本の子供たちに対し、ユニセフは衣料や学校給食などで支援していたが、全国から届いたユニセフへの感謝状を読み感動した朝は、これこそ自らのライフワークと考え、ボランティアでユニセフへの協力を始めた。翌1950年(昭和25年)には同じように集まった大勢のボランティアとともに、任意団体として日本ユニセフ協会を立ち上げ、朝は常任幹事に就任した。 奄美群島は1953年(昭和28年)に日本に返還されたが、主産業の農作物の販売経路が断たれていたため飢餓状態におかれていた。日本ユニセフ協会は1954年(昭和29年)から奄美への緊急給食支援を開始したが、その決定からチャリティー手段の導入などに、朝は中心的に活動を行った。また朝はユニセフ本部からも奄美への緊急支援の協力を取り付け、ユニセフ本部から奄美への脱脂粉乳の緊急支援は1956年(昭和31年)から7年間継続した。 1955年(昭和30年)には日本ユニセフが財団法人として再発足、朝は専務理事となった。1966年(昭和41年)の退任までの11年間、朝は十円学校募金の実施、ユニセフ親善大使だったダニー・ケイ訪日への協力、また国連本部で行われる毎年のユニセフ執行委員会への日本代表としての参加など、精力的にユニセフの事業をけん引した。
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