モースと小シーボルト
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/21 17:20 UTC 版)
大森貝塚の発掘には、モースの他に、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの次男であるハインリヒ・フォン・シーボルトが関わっている。ハインリヒは、考古学に精通していたが、学者ではなく外交官(通訳官)であった。 ハインリヒは、大森貝塚の発見を彼の師であるコペンハーゲン国立博物館館長J.A.ウォルソーに報告(1878年(明治11年)7月20日)しており、この報告によればハインリヒの大森貝塚発掘は、その前年の1877年秋、モースの発掘の前に行われた可能性がある。 モースとハインリヒは、第一発見者の功を争っており、少なくともモースは後に『日本その日その日』として翻訳された、同書のなかでモースは、「発掘調査開始にあたって誰かに先を越されることが心配だった」と述べている。 モースは1877年(明治10年)9月16日に1回目の調査を行うと、『ネイチャー』1877年11月29日号に、同年9月21日付として自身の大森貝塚発見の記事を投稿した。また、10月には東京大学が東京府に対して発掘調査の独占許可を要請し、この許可を得た。 一方でハインリヒも1878年1月31日号に自身が大森貝塚を発見したとの記事を寄せ、モースを激怒させた。 最終的には、モースが大森貝塚の報告書を1879年に出版したこと、ハインリヒの本業である外交官業務が多忙を極め考古学研究から遠ざかったことが決定打となり、ハインリヒの日本における考古学研究活動は終わっている。 ハインリヒに対しての研究は1996年(平成8年)に行われたシーボルト父子展、ハインリヒの没後100年の2008年(平成20年)に行われた各所での記念展において扱われた程度である。老練な研究者モースにハインリヒが挑んだこの研究論争によって、日本の考古学が飛躍的に発展を遂げた[要出典]。ちなみに、日本において考古学という言葉を使い始めたのはこのハインリヒが出版した「考古説略」が始めであることは余り知られていない。 指紋捜査の研究は、大森貝塚から始まったものである。
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