モン・スニとは? わかりやすく解説

モン・スニ峠

(モン・スニ から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/16 14:26 UTC 版)

モン・スニ峠
峠からモン・スニ山とモン・スニ湖を望む
所在地  フランス
座標 北緯45度15分37秒 東経06度54分03秒 / 北緯45.26028度 東経6.90083度 / 45.26028; 6.90083座標: 北緯45度15分37秒 東経06度54分03秒 / 北緯45.26028度 東経6.90083度 / 45.26028; 6.90083
標高 2083 m
山系 アルプス山脈
モン・スニ峠 (アルプス山脈)
プロジェクト 地形
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モン・スニ峠フランス語: Col du Mont-Cenis)は、フランス共和国サヴォワ県にある、アルプス山脈である。フランスのサヴォワ地方とイタリアピエモンテ地方を結ぶ。

中世から19世紀頃までは、非常によく使われたアルプス越えの道の一つであった。第二次世界大戦までは峠の頂上にフランスとイタリアの国境があったが、1947年に峠の南側(現在のモン・スニ湖を含む一帯)がフランス領に編入された。

名称

地理

モン・スニ湖とモン・スニ山地

Lanslebourg-Mont-Cenisと、イタリアのスーザトリノ県)を結ぶ、古来よりの交通路である。峠の南西方向にモン・スニ山地 (fr:Massif du Mont-Cenisがある。

峠を南へ越えた場所には、モン・スニ湖 (fr:Lac du Mont-Cenisが広がる。モン・スニ湖は、イタリア側に流れるチェニスキア川 (Cenischiaを堰き止めたダム湖である。イタリア領であった20世紀前半にこの川にはダムが作られているが、現在見られる湖の姿となったのは、フランス領となったあとの1968年に新たなダムが建設されてからである。

峠越えの道路は、北西側から以下の地点を通過する。

スーザからヴァル・ディ・スーザ(スーザ谷)を東に下れば、ピエモンテの中心地トリノに至る。

現代の交通路は19世紀初頭にナポレオン・ボナパルトによって整備されたもので、フランス領内は県道1006号線 (fr:Route départementale 1006、イタリア領内は国道25号線 (it:Strada statale 25 del Moncenisioの一部に指定されている。

モン・スニ峠のパノラマ

歴史

1859年のモン・スニ峠を描いた挿絵(峠を越えるフランス軍)

モン・スニ峠は、古来からのアルプス越えの街道の一つであった。ハンニバルアルプス越えを行った地点については複数の説があるが、モン・スニ峠もその一つである。312年には、コンスタンティヌス1世マクセンティウスと戦うためにこの峠を越えている。中世には、フランスからヴァル・ディ・スーザ経由でトリノ、あるいは遥かローマへと巡礼する人びとがこの峠を越えた。フランス革命戦争中の1794年4月には、トマ=アレクサンドル・デュマ将軍に率いられたフランス共和国のアルプス軍 (Army of the Alpsがサルデーニャ王国軍を破る戦いの舞台となった。1803年から1810年にかけて、ナポレオンは峠越えの道路を整備した。

19世紀半ばまで、峠の両側、サヴォワとピエモンテはともにサヴォイア家サルデーニャ王国の領土であり、王国の首都であるトリノと、サヴォイア家発祥の地であるシャンベリを結ぶこの街道は重要な意味を持っていた。

1860年、サルデーニャ王国(翌年にイタリア王国となる)はサヴォワ地方をフランスに割譲した。このため、この峠は国境地帯となった。1874年から1880年にかけて、イタリア王国はヴァル・ディ・スーザ一帯を要塞化したが、この峠にも3つの石造の要塞(Fort Cassa, Fort Varisello および Fort Roncia)が建設され、それを支援する砲台や防御施設が作られた。ファシスト政権期には「アルプスの壁」 (Alpine Wallと呼ばれる地下要塞の一部が建設された。

1947年第二次世界大戦の講和条約であるパリ条約で、イタリアは峠の南東側をフランスに割譲した。

フレジュス鉄道トンネル

1850年代にはアルプスを越える鉄道建設が計画される。モン・スニ峠の、南西約18kmに位置するフレジュス峠の下をトンネルで掘りぬくことになった(フレジュス鉄道トンネル)。

フレジュス鉄道トンネルは1857年から工事が開始され、またこれに合わせてフレジュス峠に近づく鉄道路線の建設が進められた。1868年には、モン・スニ峠を越えるモン・スニ鉄道が建設され、フレジュス鉄道トンネル開通に先立ってスーザ - サン・ミシェル・ド・モーリエンヌ間が開業する。この鉄道は、鉄道技術史の上では初めて恒久的なフェル式鉄道(急勾配を克服するための方式の一つ)として建設されたものとして記憶されている。レールの大部分はそれまでの街道上に敷設され、イギリス人の運転手が運行にあたった。しかし、フレジュス鉄道トンネルが完成した1871年に、モン・スニ鉄道は撤去された。モン・スニ鉄道が置き換えられたことの名残りで、フランス側ではフレジュス鉄道トンネルのことを「モン・スニトンネル」と呼ぶことが一般的である。

トリノ―リヨン間高速鉄道計画

Mont d'Ambin の地下(モン・スニ峠の地下)を鉄道トンネルで高速鉄道を通す計画がある。フレジュス鉄道トンネルを置き換えることとなる。

ツール・ド・フランス

自転車レース、ツール・ド・フランスでは過去に5回、コースとして組み入れられた。

歴代首位通過選手

外部リンク


モン・スニ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:39 UTC 版)

イタリア国鉄ALn442-448気動車」の記事における「モン・スニ」の解説

詳細は「モン・スニ (列車)」を参照 1957年6月2日より運行開始したモン・スニはフランスリヨンからフレジュス鉄道トンネル越えてミラノへ至る498kmを約5時間半で運行した列車であり、1960年5月29日からTEEとしての運行終了直前1972年9月20日まで本形式運行されていた。なお、モン・スニの名称はフレジュストンネル開業まで同区間の主要交通路であったモン・スニ峠由来するものである。本形式による運行時の運区間停車駅以下の通り。リヨン・ペラーシュ - シャンベリ - モンメリアン - サン=ジャン=ド=モーリエンヌ - モダーヌ - バルドネッキア - ウルクス - トリノ・ポルタ・ヌオーヴァ - トリノ・ポルタ・スーザ - ミラノ中央 モン・スニはフレジュストンネル前後TEE走行区間では最急となる30パーミル上の勾配区間があったが、モン・スニの経路ではフランス側第三軌条方式直流1500V区間1976年までイタリア側に三相交流3600V区間1961年まで存在しており、本形式などの気動車から電気機関車牽引客車列車への転換による所要時間短縮が困難であり、TEEとしての運行1972年9月30日終了している。 その後モン・スニはフランス国鉄のX2770形による運行変更の上1972年10月1日から通常の国際列車として存続したが、X2770形への転換時間がかかり、TEEからの転換後8ヶ月程度は本形式使用されることもあった。

※この「モン・スニ」の解説は、「イタリア国鉄ALn442-448気動車」の解説の一部です。
「モン・スニ」を含む「イタリア国鉄ALn442-448気動車」の記事については、「イタリア国鉄ALn442-448気動車」の概要を参照ください。

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