モルプランク定数
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/30 09:28 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動モルプランク定数 molar Planck constant |
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記号 | NAh |
値 | 0312712... 3.99×10−10 J s mol−1 |
相対標準不確かさ | 定義値[1] |
語源 | モル当りのプランク定数 |
モルプランク定数(モルプランクていすう、記号 NAh、英語: molar Planck constant)はアボガドロ定数(記号 NA)とプランク定数(記号 h)の積[1]。非常に正確な値が知られていた物理定数のひとつであり、20世紀後半から21世紀初めまで、NAh の不確かさは NA や h のそれよりも小さかった。そのため NA と h の間には、一方の値が決まれば他方の値も決まるという、反比例の関係があった[2]。
モルとキログラムの定義が大きく変更されたSI基本単位の再定義 (2019年)において、NA と h を定義定数として確定する際に用いられた。現在は定義定数であり、不確かさはない。
物理定数の積
実験で測定可能な物理定数が2つあるとき、それら個々の値が不正確でも、その積については正確な値が測定されている場合がある。例として、20世紀初頭のアボガドロ定数(記号 NA)と電気素量(記号 e)の積が挙げられる。NA も e も当時の実験値は精々2桁の精度で、測定方法の違いによるばらつきはそれ以上に大きかった[3][4]。それにもかかわらず、この2つの物理定数の積 NA × e については、4×104 C/mol という正確な実験値が知られていた 9.65[5]。積 NA × e はファラデー定数(記号 F)と呼ばれる物理定数であり、たとえ NA, e の値がまったく分からなくても、電気化学実験により直接測定できる量である。この F の値と現在の値の違いは0.06%程度であり、当時の電気化学測定の綿密さを物語っている[6]。
2つの物理定数 x, y の積 xy の正確な値が知られているならば、一方の物理定数 x の正確な実験値が新たに得られたとき、同時に他方の物理定数 y の正確な値も関係式 y = xyx を使って求めることができる。ロバート・ミリカンは1913年に、油滴実験の結果に基づいて新たな電気素量の値 e = 2×10−19 C を報告した 1.59[7][注釈 1]。それと同時に関係式 NA = NAee を使って新たなアボガドロ定数の値 NA = 2×1023 mol−1 も報告している 6.06[7]。ミリカンの値と現在の値の違いは e, NA ともに0.6%程度であり、F の正確さには及ばないものの、一方の値が新たに得られると他方も同程度に正確な値が求まることがこの例から分かる。
プランク定数
アボガドロ定数は、原子・分子のミクロな世界とダイヤモンド・水滴などのマクロな世界を結びつける物理定数である。それに対してプランク定数は、ミクロな世界をつかさどる量子論を特徴付ける物理定数である。量子論は、マックス・プランクが「物体が電磁波を放出・吸収するとき、物体に出入りするエネルギーは電磁波の波長に反比例する」という仮定を置いて、黒体の熱放射のスペクトルを説明する理論式を導いた1900年に始まった[8]。反比例の比例係数を光速で割ったものが、プランク定数である。
当時、空洞放射の実験から、次の2つの法則が知られていた。
- 黒体から放出されるエネルギーは、絶対温度の4乗に比例する(シュテファン=ボルツマンの法則)。
- スペクトルのピーク波長は、絶対温度に反比例する(ウィーンの変位則)。
プランクは、この2つの比例定数の実験値と光速から、彼の理論式に含まれるプランク定数(記号 h)とボルツマン定数(記号 k)を、それぞれ h = 5×10−34 J·s および 6.5k = 6×10−23 J/K と定めた 1.34[9]。ボルツマン定数とは、気体定数(記号 R)をアボガドロ定数で割ったものである。つまり NA と k の積は R に等しい。プランクは当時知られていた気体定数の値 R = 1 J K−1 mol−1 と彼が定めた 8.3k の値から、アボガドロ定数を NA = Rk = 5×1023 mol−1 と求めた 6.17[10]。
プランクが求めた NA, h の値と現在の値の違いは2%程度であり、その積 NA × h の正確さも同程度である。NA と h の掛け算からモルプランク定数(記号 NAh)を求めている限り、NAh の相対標準不確かさが NA や h のそれより小さくなることはない。
モルプランク定数の間接測定
モルプランク定数の値は、アボガドロ定数とプランク定数を使わなくても、光速(記号 c)、リュードベリ定数(記号 R∞)、微細構造定数(記号 α)、それと記号 A(e) で表される電子の相対モル質量の実験値から決めることができる[11][12]。これら4つの物理定数は、非常に正確な値が実験的に得られる物理定数なので、c, R∞, α, A(e) から計算した NAh もまた正確な値になる。
計算式

水素原子の線スペクトルの測定から得られる水素のリュードベリ定数(記号 RH)は、ボーアの原子模型を用いると次式で表される[注釈 2]。
X線結晶密度法は、シリコン単結晶試料のモル質量(記号 M(Si))と密度(記号 ρ)と格子定数(記号 a)の精密測定から、アボガドロ定数を求める実験方法である[26]。
アボガドロ定数を求める計算式は非常に単純である。密度とは単位体積あたりの質量であるから、結晶の単位格子1個あたりの質量を単位格子の体積で割ったものに等しい。シリコンの場合、体積 a3 の単位格子1個あたりにケイ素原子が8個含まれているので、ケイ素原子1個の質量を mSi とすれば次式が成り立つ。
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キッブルバランス法は、ジョセフソン効果と量子ホール効果を利用して、ワット天秤でプランク定数を測定する方法である[28][29]。
プランク定数の測定法を述べる前に、ワット天秤で分銅の質量(記号 M)を測定する方法を述べる。測定は秤量モード (weighting mode) と校正モード (moving mode) の二段階からなる。ワット天秤の天秤皿には、天秤皿と連動して上下する長さ L のコイルが取り付けられており、このコイルには磁束密度 B の磁場がかかっている。天秤皿に分銅を乗せると重力によりコイルに下向きの力がかかるが、コイルに電流を流すとローレンツ力が働くので天秤を釣り合わせることができる(秤量モード)。天秤が釣り合ったときの電流値を I1 とし、重力加速度を g とすれば、次式が成り立つ。
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プランク定数の測定に用いられたNISTのワット天秤。
以上のことから I1V2 の値は次式で与えられる[29]。
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アボガドロ国際プロジェクト(および産業技術総合研究所)は、2015年から2017年にかけてアボガドロ定数の実験値を4つ報告した[31]。プランク定数についてもキッブルバランス法で求めた実験値が、米国標準技術研究所(2015年と2017年)、カナダ国立研究機構(2017年)、フランス計量研究所(2017年)から報告された[31]。
2017年当時のモルプランク定数のCODATA推奨値は、
- NAh = 03127110(18)×10−10 J s mol−1 3.99
である。この値とX線結晶密度法で測定した NA の値から関係式 h = NAhNA を使って計算したプランク定数を、キッブルバランス法により求められた値とともに表に示す[32]。測定原理がまったく異なるふたつの方法で求めたプランク定数の値がよく一致していることが、この表から分かる。
プランク定数の定義値の決定に採用された実験結果 データID プランク定数[注釈 4] 測定方法 NIST-15 60694×10−34 J s 6.62 キッブルバランス法 NRC-17 60701×10−34 J s 6.62 キッブルバランス法 NIST-17 60699×10−34 J s 6.62 キッブルバランス法 LNE-17 60704×10−34 J s 6.62 キッブルバランス法 IAC-11 60699×10−34 J s 6.62 X線結晶密度法 IAC-15 60702×10−34 J s 6.62 X線結晶密度法 IAC-17 60704×10−34 J s 6.62 X線結晶密度法 NMIJ-17 60701×10−34 J s 6.62 X線結晶密度法 これら8つの実験データに基づいてCODATAは、プランク定数とアボガドロ定数の最も確からしい値を、
- h = 6070150(69)×10−34 J s 6.62
- NA = 2140758(62)×1023 mol−1 6.02
と決定した[32]。これらの不確かさ付きの値は、2017年の特別調整値と呼ばれる。この特別調整値に基づいて不確かさをゼロにした値が、SI基本単位の再定義 (2019年)において定義値とされた値である。
- h = 607015×10−34 J s(厳密に) 6.62
- NA = 214076×1023 mol−1(厳密に) 6.02
厳密に定義されたプランク定数の値は新しいキログラムの定義に、厳密に定義されたアボガドロ定数の値は新しいモルの定義に、それぞれ用いられることとなった。
この2つの物理定数の積であるモルプランク定数も、同時に定義定数となった。現在の値は、
- NAh = NA × h = 03127128934314×10−10 J s mol−1(厳密に) 3.99
である。
脚注
注釈
- ^ ミリカンは静電単位で報告しているが、ここでは単位をクーロンに変えた。
- ^ シュレーディンガー方程式を解いても同じ結果が得られる。
- ^ SI基本単位の再定義 (2019年) で定義値から実験値に変更された。
- ^ 比較し易いように桁をそろえた。エラーバー付きの図は、2017年の産総研プレスリリース等に記載されている。
出典
- ^ a b CODATA NAh
- ^ 臼田 (2018), pp. 166.
- ^ Millikan (1913), p. 141.
- ^ 朽津、田中 (1998), p. 638表1
- ^ 玉虫 (1990), p. 462.
- ^ 玉虫 (1998), p. 496.
- ^ a b Millikan (1913), p. 140.
- ^ 臼田 (2018), pp. 131.
- ^ Planck (1900a).
- ^ Planck (1900b), p. 244.
- ^ 倉本 (2020) p.62.
- ^ 藤井 (2020) p.15.
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/1969RMP.pdf Table XXXII.
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/1973JPCRD.pdf table 33.1.
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/codata86.pdf
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/all_1998.pdf
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/all_2002.pdf
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/all_2006.pdf
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/all_2010.pdf
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/pdf/all_2014.pdf
- ^ https://physics.nist.gov/cuu/Constants/index.html
- ^ 藤井 (2020) 図10.
- ^ 臼田 (2018).
- ^ 藤井 (2005), p. 699.
- ^ a b 倉本 (2020).
- ^ 朽津、田中 (1998).
- ^ 倉本 (2019), p. 197.
- ^ Robinson, Schlamminger (2016), pp. A47-A49.
- ^ a b c 藤井 (2020) pp.18-19.
- ^ 臼田 (2018), pp. 158-165.
- ^ a b 倉本 (2020) 表1。産総研が測定した試料は、プロジェクトが作製した試料である。
- ^ a b 倉本 (2020) p.63.
参考文献
- 臼田孝『新しい1キログラムの測り方 : 科学が進めば単位が変わる』講談社〈ブルーバックス, B-2056〉、2018年。ISBN 978-4-06-502056-2。
- 玉虫伶太「高校の化学教科書への意見 (I) : "ファラデー"という単位はない」『化学と教育』第38巻第4号、日本化学会、1990年、 462-463頁、 doi:10.20665/kakyoshi.38.4_462、 ISSN 0386-2151、 NAID 110001827069、2020年10月28日閲覧。
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- 藤井賢一「物質量: アボガドロ定数の測定における不確かさと分解能 : 基礎物理定数によるキログラムの再定義」『計測と制御』第44巻第10号、計測自動制御学会、2005年、 694-700頁、 doi:10.11499/sicejl1962.44.694、 ISSN 0453-4662、 NAID 130003698033、2020年10月28日閲覧。
- 倉本直樹「キログラムとモルの新しい定義―キログラム原器から物理定数へ― (PDF) 」 『ぶんせき』2019年5月号、社団法人日本分析化学会、 193-200頁。
- Millikan, R. A. (1913). “On the Elementary Electrical Charge and the Avogadro Constant” (PDF). Physical Review. Series II 2 (2): 109–143. doi:10.1103/PhysRev.2.109 .
- Planck, Max (October 1900). “On the Law of Distribution of Energy in the Normal Spectrum” (English) (PDF). Annalen der Physik 4: 553 ff. オリジナルの2011年10月6日時点におけるアーカイブ。 .
- Planck, M. (1900). “Zur Theorie des Gesetzes der Energieverteilung im Normalspectrum”. Verhandlungen der Deutschen Physikalischen Gesellschaft 2: 237-245 . Translated in ter Haar, D. (1967). The Old Quantum Theory. Pergamon Press. p. 82. LCCN 66-29628 .
- Robinson, Ian A; Schlamminger, Stephan (2016). “The watt or Kibble balance: A technique for implementing the new SI definition of the unit of mass” (PDF). Metrologia 53 (5): A46-A74. doi:10.1088/0026-1394/53/5/A46 .
外部リンク
- “質量の単位「キログラム」の新たな基準となるプランク定数の決定に貢献”. 産業技術総合研究所 (2017年10月24日). 2020年10月30日閲覧。
- “CODATA value: molar Planck constant”. NIST. 2020年10月27日閲覧。
- 倉本直樹. “物質量の単位「モル」の基礎解説とアボガドロ定数にもとづく新たな定義を導いた計測技術 (PDF)”. 産業技術総合研究所 計量標準総合センター. 2020年10月27日閲覧。
- 藤井賢一. “プランク定数にもとづくキログラムの新しい定義とその実現方法 (PDF)”. 産業技術総合研究所 計量標準総合センター. 2020年10月27日閲覧。
関連項目
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