メリーランドにおけるプロテスタント革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/19 02:08 UTC 版)
「チャールズ・カルバート (第3代ボルティモア男爵)」の記事における「メリーランドにおけるプロテスタント革命」の解説
一方、メリーランドのプロテスタントは、この時までに植民地でかなりの多数派となっており、イングランドからの噂を流し、ローマ教皇の策謀を恐れて、領主政府に対する反乱を組織し始めていた。ジョセフ知事は議会招集を拒み、表向きは修理のためと言って不気味にも倉庫から武器を出させることで、事態をさらに悪くした。プロテスタントは新しい国王と女王への公式の支持が明らかにされていないことに怒り、ヘンリー・ダーナル大佐のようなカトリックが副総督となって権限を掴み武装を始めたことに不満だった。1689年夏、ジョン・クードが指揮する700名のピューリタンが、自らをプロテスタント協会と称し、ダーナル大佐が率いた領主軍を破った。ダーナルの軍は著しく小勢であり、後に「我々はこの状態でかくも怒れる人々を鎮め、流血沙汰を防止できる期待が無いので、降参した。」と記していた。 メリーランドにおけるこの「プロテスタント革命」の後、勝者であるクードとそのプロテスタント同盟者は新しい政府を興し、カトリック信仰を違法とした。カトリック教徒はその後礼拝を行うためには自宅の秘密の礼拝所で行うことを強いられた。1704年、「この植民地でローマ・カトリック教会の成長を防止するための」法が成立し、カトリック教徒が政治的役職に就くことを禁じた。これより後、宗教的な寛容さが復活するのはアメリカ独立戦争を待つ必要があった。ダーナルの曾孫であり、メリーランドにおける裕福なカトリック教徒とされたチャールズ・キャロル・オヴ・カロルトン(1738年-1832年)が、1776年にフィラデルフィアで新しい国のためにアメリカ独立宣言に署名した。 ジョン・クードは、新しい王室領政府でネーマイア・ブカキストンが1691年7月27日に指名されるまでは、権力の座にあった。チャールズ・カルバート自身がメリーランドに戻ることは無く、さらには一族に与えられた植民地に対する王室勅許が1689年に取り消された。
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