ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張とは? わかりやすく解説

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ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 00:53 UTC 版)

幕末の砲艦外交」の記事における「ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)」の解説

東シベリア総督ムラビヨフ1859年8月18日安政6年7月20日)に、旗艦のスクリューフリゲート・アスコルド以下9隻の艦隊率いて江戸来航したムラビヨフ樺太全土ロシア領とし、宗谷海峡日露国境とすることを主張したが、江戸幕府はこれを拒否した。この交渉の間に、ロシア士官1人水夫1人が、横浜波止場近くで突然抜刀した日本人襲われ殺害されるという事件が発生している。これは幕末期最初外国人殺害事件であったしかしながらムラビヨフ賠償金請求は行わなかった。 この事件幕府担当者は、神奈川奉行水野忠徳であったが、責任問われ左遷され翌年万延元年遣米使節加われなかった。さらに、この際部下事件調査任せ自ら動かなかったことが、 英国公使ラザフォード・オールコック嫌われて、当時外国奉行ありながら文久遣欧使節からも外された。 艦名艦種建造トン数乗組員機関出力備砲アスコルドАсколд スクリューフリゲート 1854年 排水量2834トン 463 360 46 その他8隻は不明

※この「ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)」の解説は、「幕末の砲艦外交」の解説の一部です。
「ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)」を含む「幕末の砲艦外交」の記事については、「幕末の砲艦外交」の概要を参照ください。

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