ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)
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「幕末の砲艦外交」の記事における「ムラビヨフの江戸来航と樺太全土領有の主張(1859年)」の解説
東シベリア総督ムラビヨフは1859年8月18日(安政6年7月20日)に、旗艦のスクリューフリゲート・アスコルド以下9隻の艦隊を率いて江戸に来航した。ムラビヨフは樺太全土をロシア領とし、宗谷海峡を日露国境とすることを主張したが、江戸幕府はこれを拒否した。この交渉の間に、ロシア士官1人と水夫1人が、横浜の波止場近くで突然抜刀した日本人に襲われ殺害されるという事件が発生している。これは幕末期の最初の外国人殺害事件であった。しかしながら、ムラビヨフは賠償金の請求は行わなかった。 この事件の幕府側担当者は、神奈川奉行の水野忠徳であったが、責任を問われて左遷され、翌年の万延元年遣米使節に加われなかった。さらに、この際部下に事件の調査を任せ自ら動かなかったことが、 英国公使ラザフォード・オールコックに嫌われて、当時外国奉行でありながら文久遣欧使節からも外された。 艦名艦種建造年トン数乗組員機関出力備砲アスコルドАсколд スクリューフリゲート 1854年 排水量2834トン 463 360 46 その他8隻は不明
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