ミレー神話の流布
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「ジャン=フランソワ・ミレー」の記事における「ミレー神話の流布」の解説
ミレーの支援者であり友人であったアルフレッド・サンシエは、ミレーの伝記を執筆した。1877年、ミレー伝のうち1864年末のところまで執筆したところでサンシエは亡くなったが、美術評論家のポール・マンツが、サンシエの残したメモを編纂し、1881年、伝記『ジャン=フランソワ・ミレーの生涯と作品』をパリで刊行した。この伝記は、道徳的で、信仰深く、清貧で、農民として生きた画家という「ミレー神話」を、熱っぽい文章で伝えるもので、各国語に翻訳されて、人々が思い描くミレーの人物像に大きな影響を及ぼした。しかし、実際には、ミレーは父の農作業を手伝って育ったものの、農民として生活したわけではないし、貧乏というのも誇張があり、必ずしも客観的な事実を反映しているわけではない。 画家フィンセント・ファン・ゴッホは、サンシエの伝記を読んで感激した1人であった。ファン・ゴッホは、1882年3月、ハーグでこの本を読み、弟テオドルスに、「ねえテオ、ミレーとはなんと大した男だったのだろう」と感想を書き送り、その後も伝記から度々引用している。 サンシエの伝記に疑問を提示したのが、イギリスの美術史家ジュリア・カートライトであった。1896年、ロンドンで出版した『ジャン=フランソワ・ミレー、生涯と書簡』の中で、バルビゾンのミレーの家は、サンシエが家主から買い取ってミレーから家賃を取って貸していたこと、ミレーの没後、サンシエが急に家賃を上げて遺族の追い出しを図ったことなどを明らかにした。ミレー夫人が、サンシエの伝記では夫が余りに陰鬱に描かれており、誤解を与えるという不満を持っていたことも明らかにした。 他方、ロマン・ロランは、サンシエの伝記に基づいて、1902年にロンドンで『ミレー』を刊行した。サンシエやホイールライトの伝記から感動的な部分を取り入れた偉人伝となっているが、過大な礼賛となってしまっている。 1921年、エティエンヌ・モロー=ネラトン(英語版)が3巻の伝記を刊行した。これは、サンシエの伝記の誤りを正し、ミレーの書簡や記録を豊富に収録し、客観的な記述をするものであった。
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