ミハス【Mijas】
ミハス【ミハス】(草花類)
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登録番号 | 第12077号 |
登録年月日 | 2004年 6月 4日 | |
農林水産植物の種類 | アスター | |
登録品種の名称及びその読み | ミハス よみ:ミハス |
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品種登録の有効期限 | 20 年 | |
育成者権の消滅日 | ||
品種登録者の名称 | 株式会社サカタのタネ | |
品種登録者の住所 | 神奈川県横浜市都筑区仲町台二丁目7番1号 | |
登録品種の育成をした者の氏名 | 淡野一郎、熊谷三郎 | |
登録品種の植物体の特性の概要 | ||
この品種は、出願者所有の育成系統どうしを交配して育成されたものであり、外花弁が黄白色のやや小輪花で、やや早生の切花向きの品種である。草姿はほうき型、一次分枝の発生量は多、発生位置は低~中位、二次分枝の発生量は多、開花時草丈はやや高である。節数はやや少、茎の太さ(地上10㎝)は細、同(最長側枝の1/2の点)はかなり細、最長の一次分枝長はやや長、茎の強度は強である。葉身長(最長側枝の最大葉)及び葉幅は中、葉柄長はかなり長、葉身長(地上10㎝の葉)は中、葉幅はやや広、葉柄長はやや長、葉色は濃緑である。花弁の形は平弁、外花弁の反り方は外反、花径はやや小、花弁の長さ(最外弁)及び幅は中、総ほう部の直径はやや大、外花弁の色は黄白(JHS カラーチャート3301)、花盤の色は黄、花の厚みはやや薄、舌状花数及び管状花数は極少、総ほう片数はかなり少である。開花期の早晩性はやや早である。「ティピホワイト」と比較して、最長側枝の最大葉の葉柄長が長いこと、花の厚みが薄いこと等で区別性が認められる。 | ||
登録品種の育成の経過の概要 | ||
この品種は、平成元年に出願者の農場(長野県南安曇郡三郷村)において、出願者所有の育成系統どうしを交配し、その実生の中から選抜、以後、固定を図りながら特性の調査を継続し、10年にその特性が安定していることを確認して育成を完了したものである。 |
ミハス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/26 12:05 UTC 版)
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州 | ![]() |
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県 | ![]() |
面積 | 148.885 km² |
標高 | 428m |
人口 | 77,521 人 (2014年) |
人口密度 | 520.68 人/km² |
住民呼称 | Mijeño/a |
北緯36度36分 西経04度38分 / 北緯36.600度 西経4.633度座標:
北緯36度36分 西経04度38分 / 北緯36.600度 西経4.633度 |
ミハス(スペイン語: Mijas)は、スペイン・アンダルシア州マラガ県のムニシピオ(基礎自治体)。コスタ・デル・ソル(太陽の海岸)にあり[1]、白い村の中心的な町として、国内で有数の観光地となっている。経済は主に観光によって成り立っている。
歴史
ミハスの集落は古代にタルテッソス人によって造られた。当時の砦跡は現在の市壁の一部として見ることができる。古代ギリシアやポエニ人が、豊富な鉱物資源目当てに村にやってきていたことが、2世紀に出版されたプトレマイオスによる『地理学』に記述されている。
ローマ人には「タミサ」(Tamisa)の名前で知られており、彼らはミハスと活発に貿易をしていた。ローマ人による支配の後、714年より西ゴート族の支配に代わり、更にはムーア人による支配へと代わった。ムーア人は異教徒の村人が蓄財することや彼らの宗教・慣習を、村の農産物や畜産品の3分の1を徴税することを条件として認めた。タミサの名前をミクサ(Mixa)に変更したのもムーア人であり、ミクサが後に現在のミハスという名前に変化した。
コルドバ首長国の時代、村はウマル・イブン・ハサンに征服され、9世紀末にアブド・アッラフマーン3世に敗れるまでその支配が続いた。
1487年のマラガ包囲の間、ミハスはカトリック両王の攻撃に抵抗した。マラガ陥落の後、住民たちは降伏し、その大部分が奴隷として売られていった。数十年後のコムネロスの反乱の間、ミハスはスペイン王に忠誠を誓ったため、王室より「Muy Leal」(非常に忠実)の称号が与えられた。その後ほどなくして、フアナがミハスを村から町に昇格させ、国王課税を免除した。
この頃から19世紀にかけて、海岸沿いにおける海賊行動が活発になり、ミハスは苦難を強いられた。海賊行動を監視するために、現在も海岸沿いで見ることのできる見張り塔が建設された。
脚注
- ^ 『世界の美しい階段』エクスナレッジ、2015年、151頁。ISBN 978-4-7678-2042-2。
外部リンク
- 公式ウェブサイト (スペイン語)
- ミハスのページへのリンク