マルタの評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 06:14 UTC 版)
「マリア (マルタの妹)」の記事における「マルタの評価」の解説
マイスター・エックハルトはこの説教の中で、マルタをマリアより成熟した女性としてより高い評価を与えている。マルタが円熟した年齢と「極限にまで鍛え抜かれた(魂の)根底」を持っていたとし、長く生きることは最も高貴な認識を贈ってくれると讃えている。また、イエスが「マルタ、マルタ」と二回名前を呼んだ意味について、一度目には時間的働きのうちにあるマルタの完全性を示し、二度目には永遠なる浄福のためにマルタが必要なもの全てを持っていることを示したとする。すなわち、マルタが時間的善と永遠なる善の全て、つまり一個の被造物が所有できる一切のものをことごとく備えていた、と完全に近い評価を与えている。また、「マリアがマリアとなる前に、マリアはまずマルタであった、なぜなら主の足元に座ったとき、マリアはマリアではなかった」という一文が出てくる。これは意味が通らないが、田島訳では直後に(マルタのようにならなければならなかった)という解釈を挿入している。この解釈は、この後の論の展開でマリアが学校の一年生に譬えられているのに対し、マルタはすでに完全に本質的な在り方に立っていたという対比、また「良く鍛えられた身体を持ち、賢明な教えに従順になってこそ、はじめてわたしはこれをマリアと名付ける」といった記述からその妥当性が評価できる。このように、マリアは未熟であり、マルタは成熟している、といった構図の評価が繰り返されている点に、マイスター・エックハルトの意図を読み取るべきであろう。最後に、イエスがマルタに対して「あなたは思い悩んでいる」と言ったのは、あなたは多くの事物のかたわらに立っているが、決してそれらの事物があなたの内にあるのではない、という意味であったと解釈し、特に思い悩みの「中」と「かたわら」に立つことの差異に特に注意を促し、詳細な議論を展開する。結論として、思い悩みの「かたわら」に立つとは、マルタがマリアのように精神的陶酔の内で自分を甘やかすことなく、魂の下位の諸力を用いて苦労とわずらわしさとの多い仕事に身をもって当たったことを指している、とまとめている。
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