マリ連邦
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マリ連邦(マリれんぽう、フランス語: Fédération du Mali)は、1959年4月4日に成立した連邦国家で、フランス領西アフリカの一部であったスーダン共和国(現在のマリ共和国)とセネガル共和国が合併し、翌1960年6月20日にフランスから独立した[1]。しかし同年8月20日にセネガルが分離独立し、残った旧スーダン共和国も同年9月22日にあらためてマリ共和国[2]として独立したために消滅した。独立国としては2ヶ月のみ存在した短命国家である。
- ^ 平凡社『世界大百科事典』第2版のマリ連邦の言及。『マリ連邦(読み)まりれんぽう』 - コトバンク。
- ^ 『マリ』 - コトバンク。
- 大迫秀樹「マリ」『知恵蔵』朝日新聞出版、2013年。
- 「マリ」『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』Britannica Japan Co., Ltd、2014年。
- 「マリ」『デジタル大辞泉』小学館、2020年。
- 「マリ」『精選版 日本国語大辞典』小学館。
- 「マリ」『デジタル大辞泉プラス』小学館。
- ^ 内藤陽介 2013, p. 64.
- ^ 内藤陽介 2013, p. 94.
- ^ a b 内藤陽介 2013, p. 65.
- ^ a b c 内藤陽介 2013, p. 68.
- ^ a b 内藤陽介 2013, p. 69.
- ^ 内藤陽介 2013, p. 70.
- ^ Flag of French Sudan (1958–1959)(Wikimedia Commons)
マリ連邦
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1950年代後半に入り、アフリカ各植民地の独立が現実的になってくると、ケイタはパン・アフリカ主義に基づきフランス領西アフリカ各植民地の連合を提唱し、分離独立を唱えるウフェボワニと対立し、セネガルのサンゴールと近づくようになった。 1959年1月、フランス領スーダン・セネガル・オートボルタ(現ブルキナファソ)・ダオメー(現ベナン)の4ヶ国の代表がダカールに集まって協議するも、スーダンとセネガルが統一国家を主張したのに対し、オートボルタとダオメーは独立国家の連合を主張し、会議は決裂。1960年6月にスーダンとセネガルは国名をかつてのマリ帝国にちなんでマリ連邦となり、サンゴールが国会議長、ケイタは首相に就任した。 しかし、親西側のサンゴールと、親東側のケイタで路線対立がすぐに表面化し、1960年8月20日にマリ連邦は解体。8月22日にスーダンはマリ共和国として単独独立し、ケイタは初代大統領に就任した。
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