マウリヤ朝以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 03:20 UTC 版)
マウリヤ朝は官僚制度を整え、その経済政策は『実利論』にも記されている。整備された交易路や交易港は、マウリヤ朝の滅亡後も利用された。北方のクシャーナ朝はシルクロードの一部を押さえ、ガンジス川流域ではグプタ朝の建国までにいくつもの王国が成立した。デカン高原のサータヴァーハナ朝は西方との貿易が盛んで、1世紀頃にはギリシア人やアラビア人が訪れた。中国の絹はガンジス川河口からの海上ルートでも運ばれた。南インドのチョーラ朝は海上貿易でローマに胡椒、絹、綿布、宝石などを輸出し、ローマからワインを輸入し、傭兵にはギリシア人がいたとされる。当時の港湾都市のアリカメドゥ(英語版)では、ローマの商館跡からアンフォラやガラス製品が発見され、南インド沿岸各地からはローマの金貨も発見された。ギリシア人などの西方人はヤヴァナ(英語版)と呼ばれた。グプタ朝の時代にはローマが紅海のルートを押さえられたため来航が減るが、グプタ朝はベンガルを支配下におき、西アジアや東南アジアとの貿易は続いた。6世紀にはグプタ朝末期の混乱で大都市間の交易が減り、海上貿易もアラブ人やペルシア人に代わられていった。
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