ポーランド王位回復の悲願
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:58 UTC 版)
「シロンスク・ピャスト家」の記事における「ポーランド王位回復の悲願」の解説
ヘンリク1世はポーランド国内の紛争に積極的に介入し、着実に自分の領国を拡げていった。ヘンリク1世は、1229年にクラクフ長子領を獲得する以前から、ヴィエルコポルスカを自分の支配領域に組み込むべく努力を続けていた。彼は13世紀の始め以後、ヴィエルコポルスカを領する大叔父ミェシュコ3世(老公)の子孫との争いを絶え間なく続けていた。1234年、ヘンリク1世はついにヴィエルコポルスカ地域の半分を支配下に収めた。幼少の諸公の後見人として、ヘンリク1世はオポーレとサンドミェシュ(英語版)の支配権をも手に入れた。 しかしその政治目標はさらに高みを目指していた。ヘンリク1世はただ自分の領国を拡げただけではなく、自分の支配領域を中心地域として、ポーランド王国を復活させようと企んでいたのである。彼は1232年にマウォポルスカのクラクフ公となり、この権利によってポーランドの首位の公(君主)の称号を得た。ヘンリクは自分の「王国」をポーランドの領域外にまで拡張し、バルニムとテルトウ(一時的に支配)、低地ルサティアの一部などを支配した。しかし、努力も空しくポーランド王として戴冠することはできなかった。 ボレスワフ2世の没落以後、忘れられたも同然になっている国王戴冠の復活は、ヘンリク1世の晩年の治世を支えていた長男ヘンリク2世(敬虔公)の手に委ねられた。1238年に死んだ同名の父の後を継いだヘンリク2世は、初期のピャスト家の諸王に匹敵する大器だった。父の大変に優れた政策を踏襲し、父とは事あるごとに対立してきた聖職者達を味方に引き入れた。 ヘンリク2世は義弟のボヘミア王ヴァーツラフ1世と強固な同盟関係を築き、野心家のポモジェ公バルニム1世に対抗して自らのヴィエルコポルスカにおける立場を強め、ルブシュ[要リンク修正]城を攻撃してきたブランデンブルク辺境伯とマクデブルク大司教を撃退した。そして一族の古い伝統を踏襲して、ヘンリク2世は聖座の庇護下に入り、この同盟関係に基づいてフリードリヒ2世と敵対した。もしこのまま順調に経過していけば、ヘンリク2世は確実に自分の「王国」の独立と威信を保つことが出来たに違いない。ドイツとの結びつきの強さも、何の問題にもならなかったはずである。
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