ポーランド王カジミェシュ3世によるボヘミア遠征
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「ボルコ2世マウィ」の記事における「ポーランド王カジミェシュ3世によるボヘミア遠征」の解説
この直後、ポーランド王カジミェシュ3世は自分の利益のために反ボヘミア同盟を利用することになった。カジミェシュ3世はボヘミア王ヨハンの長男であるモラヴィア辺境伯カール(後の皇帝カール4世)を投獄した。ヨハンは報復としてボルコ2世の領国を侵略し、対するポーランドとハンガリーはボヘミアに宣戦した。ボルコ2世はシフィドニツァ包囲中のボヘミア軍が各方面に分散したのを好機として、ボヘミア軍を撃退することが出来た。しかし、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世はすぐにボヘミア王との一時的な休戦条約を結んだ。戦況は一進一退を繰り返し、どちらの陣営も相手に決定打を下すことが出来なかった。シフィドニツァ公国に関しては、ボルコ2世は1345年にカミェンナ・グラの要塞を失ったが、1348年に姦計を用い、商人に変装させた兵士たちを送り込んで、この要塞を取り戻した。 ボヘミア王ヨハンは1346年、百年戦争の最中のクレシーの戦いで戦死していたため、中欧での戦争終結を見ることは出来なかった。ルートヴィヒ4世も翌1347年に死去、1348年11月22日、ナムィスウフで和約が結ばれ、戦争は結局引き分けに終わった。この時理由は不明だが、ボルコ2世は交渉権を認められず、シフィドニツァ公国の利益はポーランド王が代表することになった。ボルコ2世とボヘミアの新国王である神聖ローマ皇帝カール4世の関係正常化は、1350年8月16日、オーストリア公アルブレヒト2世による調停によってようやく実現した。
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