ペーター・フェヒター事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 08:54 UTC 版)
「チェックポイント・チャーリー」の記事における「ペーター・フェヒター事件」の解説
1962年8月17日、東ドイツ人のペーター・フェヒターという18歳の青年が、チェックポイント・チャーリー近くの壁をよじ登って西側へ脱走しようとしたところ、これを発見した東ドイツの警備兵に銃撃された。背中に弾を受けて壁から落ちたフェヒターは、有刺鉄線のフェンスに絡まるように倒れこみ、西側のジャーナリストを含む数百人が見守る中、そのまま失血死した。彼の身体は境界線から数メートル東側にあったため、アメリカ軍の兵士は救助することができず、また東ドイツ警備兵も西側の兵士を刺激することを恐れて、フェヒターに近寄ることを躊躇した。結局、フェヒターの遺体は1時間以上経ってから東ドイツ兵によって回収された。 これを受けて、東側の行為と西側の無為に対する抗議行動が検問所のアメリカ側で起こった。さらに数日後、イギリス地区ティーアガルテンにあるソ連の戦死者墓地へ向かうソ連のバスに向かって群衆が投石する事件が起こり、ソ連軍は装甲兵員輸送車でバスを護衛せざるを得なかった。この後、ソ連軍はティーアガルテンに最も近いザントクルーク橋検問所のみの通行しか認められなくなり、イギリス地区への装甲兵員輸送車の乗り入れも禁止された。 この禁令を徹底するため、西側の部隊は9月初めのある日真夜中、武器弾薬や軍用車両を展開した。もっとも、これらの弾薬は結局使用されることはなかった。その後、1973年に東ドイツの国境警備兵が自動小銃を発砲し、チェックポイント・チャーリーに弾痕を残すということがあったが、アメリカ兵に死傷者は出なかった。
※この「ペーター・フェヒター事件」の解説は、「チェックポイント・チャーリー」の解説の一部です。
「ペーター・フェヒター事件」を含む「チェックポイント・チャーリー」の記事については、「チェックポイント・チャーリー」の概要を参照ください。
- ペーター・フェヒター事件のページへのリンク