ヘルムート・フィッケル
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「ハンス=ウルリッヒ・ルーデル」の記事における「ヘルムート・フィッケル」の解説
ヘルムート・フィッケル(Helmut Fickel)は、ルーデルの副官であり、また戦闘時はルーデルの僚機(2番機)として出撃したパイロットである。1921年11月27日生まれ、ドイツ・テューリンゲン州・シュマルカルデン=マイニンゲン(ドイツ語版)出身。1940年1月10日徴兵され、航空学校に送られたフィッケルは、1943年2月に第2急降下爆撃航空団第III飛行大隊第8中隊(8./III./SG2)に配属された。1943年3月10日ポルタワ近郊に初出撃する。そして、1943年10月15日から1944年の夏までの間、フィッケルはルーデルの副官として、また僚機(ウィングマン)として500以上の任務に出撃した。また、しばしばフィッケルはルーデルと2機だけで対戦車攻撃に出撃し、そのほとんどで成功していたため、大隊では有名な存在であった。1943年の終わりまでには、最も才気あふれるシュトゥーカパイロットの一人として頭角を現し、1944年11月に第2地上攻撃航空団第III飛行大隊第9中隊(9./III./SG2)の指揮官に任命される。以後、終戦まで中隊指揮官として戦闘を続けた。 1944年夏、彼の機体は対空砲火を受けソ連軍の前線に不時着する。しかし、フィッケルと彼の通信士は敵の砲火をかいくぐって着陸したルーデルによって救われた。 戦争中、フィッケルは3回撃墜されるも、負傷することはなかった。また、その内2回を戦場に強行着陸したルーデルによって救われている。そして、戦争の終わりまでに800回以上の出撃回数を記録し、1945年5月にイギリス軍の捕虜となって終戦を迎えた。騎士鉄十字章(1944年6月9日、550回出撃による)を受章しているが、この時授けたのはルーデルであった。戦後は幸せな晩年を送り、2005年4月6日に亡くなった。最終階級は中尉。
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