プローラの建設と戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/31 14:50 UTC 版)
1936年、リューゲン島と本土とを結ぶ橋・リューゲンダム橋(英語版)が建設され、プローラ建設も始まった。1936年から1939年にかけて、プローラが建設されていた時期にはドイツの全ての大手建設会社が何らかの形で関わっている。建設作業員数は9,000人を数えた。 1939年、第二次世界大戦が始まるとプローラ建設も中止された。長大な宿泊棟、劇場と映画館はがらんどうのまま放置され、埠頭は埋め立てたまま建設中止、その後ろに予定されたプールとフェスティバル・ホールは建設されなかった。英米軍によるハンブルク空襲が始まると、ハンブルクから多くの避難民がリューゲンに疎開し、プローラの居住棟の一つに入った。終戦間際にはドイツ空軍の女性補助部隊隊員や武装警察の教育施設となり、さらに東ヨーロッパからの避難民の受け入れにも活用された。 1945年、ソ連軍がリューゲン島一帯を占領し、プローラはその基地となった。プローラのビルは一部がドイツ駐留ソ連軍の爆破訓練に使われ、東ドイツ政府の手で解体する案もあったが頑丈な上に巨大なため撤去にはいたらず、戦災難民の一時居住施設、次いで国家人民軍の駐屯地として利用が続けられた。どっしりとした無味乾燥なビル群は6つが残存し、ドイツ再統一後は観光スポットとなっている。
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