プリンストン大学留学
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1960年にロックフェラー財団より奨学金をもらうことが内定する。プリンストン大学のオスカー・モルゲンシュテルンに『ゲームの理論』と同書の目次英訳を送り留学受け入れを依頼し、留学承諾の手紙をもらう。1961年6月、安倍節子と結婚し二人で渡米することとなる。 アメリカでは、ロックフェラー・フェローとしてプリンストン大学のオスカー・モルゲンシュテルンの研究所に滞在する。この間、学会も含めてマーチン・シュービック(英語版)、ロバート・オーマン、ミハエル・マッシラー(英語版)、ハロルド・クーン、ロイド・シャープレーら多くのゲーム理論家と接する機会を得ることができ、帰国後もディスカッションペーパーを送ってもらえる関係を築いた特にロイド・シャープレーからは、ランド研究所のペーパーを出版の度に送ってもらうほどであった。また、のちにノーベル経済学賞を受賞するジョン・ナッシュにも会っており、後年回想記事を執筆している。 プリンストン大学では統計学の講義を聴講するとともに、畠中道雄とスペクトラム分析の研究に取り組む。畠中との研究の後、コンピュータを用いて日本経済の時系列データをスペクトラム解析した研究成果を残し、モルゲンシュテルンから評価される。滞在2年目の終わりにモルゲンシュテルンからもう1年残ることを勧められ、3年目はプリンストン大学のリサーチ・アソシエイトとしてこの研究を続けている。 鈴木は1964年7月に帰国し、東北大学に復職する。しかし恩師の安井琢磨は大阪大学への異動が決まっており、次の職を探す必要に迫られる。なお、鈴木はプリンストン大学で武者小路公秀や江藤淳と知り合っており、江藤が帰国後執筆した『アメリカと私』の文庫版では、鈴木が解説を担当している。
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