プスコフの統治者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 06:12 UTC 版)
「ダウマンタス (プスコフ公)」の記事における「プスコフの統治者として」の解説
ダウマンタスはプスコフ到着後に東方正教会の洗礼を受けて(キリスト教名はティモセウス(英語版)、ルーシ語でティモフェイ)、アレクサンドル・ネフスキーの息子ドミトリーの娘と結婚した。リトアニアに対してプスコフ軍を率いてダウガヴァ川の土手で敵軍を撃破し、ゲルデニス(リトアニア語版)公の地に侵入して破壊を行い、その2人の息子と妻を捕える。ダウマンタスの勇敢な精神、友好的な手段、軍事的事業の成功は、ダウマンタスを自分達の「公」(クニャージ)として、軍事指導者に選出することをプスコフ人に納得させるに至った。 ダウマンタスの選出は、伝統的にプスコフの内政を管轄下に置くノヴゴロド共和国に是認されなかった。ノヴゴロド公ヤロスラフはプスコフ市民の反抗に対する懲罰とダウマンタスの放逐を企てたが、ノヴゴロド市民はヤロスラフの遠征に参加することを拒絶し、翌年のダウマンタスによるリトアニア侵攻に参加さえもした。ダウマンタスは再びプスコフ軍の指揮を執り、勝利の凱歌をもたらした。 翌年、プスコフ=ノヴゴロド同盟はリヴォニア騎士団の侵攻でより強固なものとなった。ダウマンタス指揮下のプスコフ軍はヤロスラフと義父ドミトリー率いるノヴゴロド軍に加わって1268年のヴェセンベルグの戦い(英語版)(現在のラクヴェレ付近)でリヴォニア騎士団に大打撃を与えた。次の年にリヴォニア騎士団総長オットー・フォン・ルーテンベルグ(英語版)はプスコフ包囲の指揮を執ったが、ノヴゴロドの支援を受けたダウマンタスは反撃してルーテンベルグに負傷を負わせることで撃退に成功した。リヴォニア騎士団は幾つかの犠牲により和平を求め、プスコフとノヴゴロドへの攻撃は30年の間止んだ。
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