プスコフとポラツクの統治者とは? わかりやすく解説

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プスコフとポラツクの統治者

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 03:39 UTC 版)

アンドリュス・アルギルダイティス」の記事における「プスコフとポラツクの統治者」の解説

1342年、アンドリュスは父アルギルダス叔父ケーストゥティスとともにプスコフ共和国救援するためリヴォニア騎士団戦った共和国側はアルギルダス支援を常に受け続けよう考え、その息子のアンドリュスにプスコフ勤務公として留まってくれるように打診した。アンドリュスはこれを聞き入れ正教改宗してアンドリュス/アンドレイ名乗った改宗前の名前は不詳) 。しかし、アンドリュスはごく短期間プスコフ滞在するリトアニア帰国した。その理由明らかでないが、歴史家たちはポラツク公を務めていた大叔父ヴァイニウス死んだことに関連している、と推測している。リトアニア大公国リヴォニア騎士団国家境界位置するポラツクは、リトアニア国家命運を握る都市であった。アンドリュスはポラツク公となり、リヴォニアドイツ人騎士たちからリトアニア防衛する任務就いたプスコフではアンドリュスの代理人としてユーリーという素性不明人物置かれた。リトアニアの歴史家アヴィダス・ニクジェンタイティスは、このユーリーという人物ゲディミナス孫息子(つまりアンドリュスの従兄弟)だった可能性がある、と推測している。 ユーリー1348年までプスコフ滞在していた。その年、ドイツ騎士団リトアニア対し、ストレーヴァの戦い始めとする大攻勢仕掛けたリヴォニア騎士団プスコフ共和国イズボルスク要塞襲ったとき、プスコフ共和国軍はスウェーデン侵略されノヴゴロド共和国救援し行っていた。ユーリーはこの時の騎士団攻撃戦死したリトアニア人プスコフ支援することが出来なかったため、プスコフ共和国政府はもはやリトアニア大公国からアンドリュスの代理人受け入れることを拒んだ。アンドリュスはこれに対して報復を以て臨みリトアニアにいる全てのプスコフ商人逮捕してその物品を没収した。こうして、リトアニアプスコフ友好関係断たれた。アンドリュスはその後30年近くポラツク公を務めた

※この「プスコフとポラツクの統治者」の解説は、「アンドリュス・アルギルダイティス」の解説の一部です。
「プスコフとポラツクの統治者」を含む「アンドリュス・アルギルダイティス」の記事については、「アンドリュス・アルギルダイティス」の概要を参照ください。

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