プスコフとポラツクの統治者
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「アンドリュス・アルギルダイティス」の記事における「プスコフとポラツクの統治者」の解説
1342年、アンドリュスは父アルギルダスと叔父ケーストゥティスとともに、プスコフ共和国を救援するためリヴォニア騎士団と戦った。共和国側はアルギルダスの支援を常に受け続けようと考え、その息子のアンドリュスにプスコフの勤務公として留まってくれるように打診した。アンドリュスはこれを聞き入れ、正教に改宗してアンドリュス/アンドレイと名乗った(改宗前の名前は不詳) 。しかし、アンドリュスはごく短期間プスコフに滞在するとリトアニアに帰国した。その理由は明らかでないが、歴史家たちはポラツク公を務めていた大叔父ヴァイニウスが死んだことに関連している、と推測している。リトアニア大公国とリヴォニア騎士団国家の境界に位置するポラツクは、リトアニア国家の命運を握る都市であった。アンドリュスはポラツク公となり、リヴォニアのドイツ人騎士たちからリトアニアを防衛する任務に就いた。プスコフではアンドリュスの代理人としてユーリーという素性不明の人物が置かれた。リトアニアの歴史家アヴィダス・ニクジェンタイティスは、このユーリーという人物がゲディミナスの孫息子(つまりアンドリュスの従兄弟)だった可能性がある、と推測している。 ユーリーは1348年までプスコフに滞在していた。その年、ドイツ騎士団はリトアニアに対し、ストレーヴァの戦いを始めとする大攻勢を仕掛けた。リヴォニア騎士団がプスコフ共和国のイズボルスク要塞を襲ったとき、プスコフ共和国軍はスウェーデンに侵略されたノヴゴロド共和国を救援しに行っていた。ユーリーはこの時の騎士団の攻撃で戦死した。リトアニア人はプスコフを支援することが出来なかったため、プスコフ共和国政府はもはやリトアニア大公国からアンドリュスの代理人を受け入れることを拒んだ。アンドリュスはこれに対して報復を以て臨み、リトアニアにいる全てのプスコフ商人を逮捕してその物品を没収した。こうして、リトアニアとプスコフの友好関係は断たれた。アンドリュスはその後30年近くポラツク公を務めた。
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