ブリティッシュ・ポリシー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 05:59 UTC 版)
「ジョン・ロバート・シーリー」の記事における「ブリティッシュ・ポリシー」の解説
シーリーはまた、近代的な大国としてのイギリスの外交政策の本質を、「ブリティッシュ・ポリシー(British Policy、英国的政策)」と呼び、その形成期の研究の重要性を呼びかけている。 アルマダの海戦(1588年)とスペイン継承戦争(1701年-1714年)はともに、イギリスが世界的大国として飛躍する契機となったが、シーリーはこの間の時期を「ブリティッシュ・ポリシー」の成長の時期であるとみて、ここにこそ「大国としてのイギリス」の本質を理解するうえで欠くことのできない重要な過程が含まれているとする。すなわち。この間の100年あまりのあいだの試行錯誤こそが、ブリティッシュ・ポリシーの骨子をつくりだし、そのあいだのサクセス・ストーリィと失敗の教訓とがイギリス特有の外交文化を育てたというのである。 シーリーは、この成長の百余年(16世紀末-18世紀初頭)を、3つの「山」と2つの「谷」にたとえた。「山」(サクセス・ストーリィ)とは、 「エリザベスとスペイン無敵艦隊」(1588年) 「クロムウェルの戦争と平和」(1651年-1660年) 「オレンジ公ウィリアム3世の成功物語」(1688年-1714年) であり、かれら3人に共通するのは徹底した現実主義、あくなき国益の追求と堅牢なナショナリズムである。 それに対し、「谷」は、 ジェームズ1世とチャールズ1世(1603年-1649年) チャールズ2世とジェームズ2世(1660年-1688年) である。ジェームズ1世とチャールズ2世は狡智だが放漫な浪費家であり、チャールズ1世とジェームズ2世は強情な夢想家であった。いずれも議会を敵視し、しばしば外国に盲従して英国人を憤怒させた。外交面でも失政を重ねた。 シーリーによれば、このようにイギリス外交における伝統は、一朝のうちに現れたものではなく、挫折や揺り返しを多く含みながら、百年かけて徐々にかたちづくられたものであり、それを一言で言えば「低地(ネーデルラント)」こそ、「イングランドの外堀」であり、その独立こそイギリスの主要利害であるとする勢力均衡(バランス・オブ・パワー)の思想である。
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