フランスによる支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/10/13 03:44 UTC 版)
「フランス領イオニア諸島」の記事における「フランスによる支配」の解説
1796年、イタリア北部を占領したナポレオンはヴェネツィアが領有していたイオニア諸島への関心を持った事から、イオアニアのテペデレンリ・アリー・パシャの下へ使者を派遣した。しかし、1797年、オーストリアとフランスは戦争となると、フランス軍がイオニア諸島を突然、襲撃してこれを占領した。この戦争の講和条約として、カンポ・フォルミオ条約が結ばれたが、イオニア諸島はフランスの領有下となった。 ナポレオンは占領後、イオニア諸島が地中海東部における重要な位置を占めていると判断、アンセルム・ゲンテイリ将軍を司政官に任命、さらに島民らにフランスが重要視していることを知らしめるためにナポレオンは身内であるウジェーヌ・ド・ボアルネをケルキラ島へ派遣して島民らを懐柔させた。 イオニア諸島の人々はこれらの処遇に対してフランス軍を解放者として歓迎、ヴェネツィア支配下で使用された「聖マルコの旗」を降ろし、ヴェネツィアへの忠誠を誓う証「黄金文書」を焼却し、その代わりに「自由の樹」を植えてフランス軍を迎えた。しかし、フランス軍はイオニア諸島の貴族らの特権を廃止するなどはしたが、庶民には何も与えることなく、それどころか以前にまして激しい重税が課せられた。そして島の政治団体も解散させられ、これに抗議した人々は逮捕された。 そして新たな法体系が持ち込まれた事により、これまで用いてきた法律と混同され、さらには「特別区」が設定されたことにより混乱を招いた。さらには島に駐屯したフランス軍はギリシャの独立にはなんら関心を持たず、それどころかギリシャ人の敵であるアリー・パシャとも取引してこれを支援することもあった。そのため、イオニア諸島の貴族らは占領当初から警戒感を抱いていた。 イオニア諸島の貴族らはフランス軍が強制軍税を課そうとしたことに対して拒否、これにより逮捕者を出す事となったが、この中には後のギリシャ初代大統領イオアニス・カポディストリアスの父、アントニオ・マリア・カポディストリアス伯爵も含まれていた。彼らは投獄された後、死刑こそ免れたが全財産は没収された。
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