フェランの解放
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:34 UTC 版)
「ジャンヌ・ド・コンスタンティノープル」の記事における「フェランの解放」の解説
フェランの投獄中、ジャンヌはやもめになっていたブルターニュ公ピエール・モークレールから求婚されていた。彼女は、ローマ教皇ホノリウス3世に対して、近親婚を理由にフェランとの婚姻無効を働きかけることをピエールと同意した。しかし、ルイ8世はフランドル伯とブルターニュ公の再婚を拒否した。カペー家と血縁関係にあるフランドル伯とブルターニュ公が結婚によって結びつき、誕生するであろう強大な領土は王室の領地を搾り取って危険だと判断したのである。ルイ8世はジャンヌとフェランの再婚の許可をローマ教皇から獲得し、一方でジャンヌに条約と身代金の支払いを強制した。ジャンヌは偽ボードゥアンを支持し反乱を起こした都市に莫大な罰金を課した。おかげでフランス軍による2伯領奪還の代償2万リーブルを支払うことが可能になった。 1226年、ムランにおいてジャンヌとルイ8世の間で条約が締結され、フェランの身代金は2回の分割払いで5万リーブルとなった。ジャンヌはフェランを配偶者とする合意を強制されていた。もし二人がフランス王に対して不誠実であれば、封建法における偽証として、どちらも破門であった。最終的には、彼の騎士たち、都市の代表者たちはフランス王に忠誠を誓う必要があった。27の都市、350人の貴族が宣誓した。ルイ8世が11月8日に死去した後、王太后で摂政のブランシュ・ド・カスティーユと即位したルイ9世は、ジャンヌが身代金2万5000リーブル(減額された)を払った後に、実際に1227年1月にフェランを釈放した。 1227年から1228年の間と推測されているが、ジャンヌは長女マリーを出産した。マリーはジャンヌとフェランの唯一の子で、ルイ9世の弟ロベール・ダルトワの許婚となった。ところがマリーは1236年に急死した。フェランは1233年7月27日、長い獄中生活の間に患った結石症のためにノワイヨンで死去した。彼の心臓はノワイヨンのノートルダム大聖堂に埋葬され、遺体はフランドルのマルケット修道院に埋葬された。夫の死後、ジャンヌはレスター伯シモン・ド・モンフォールとの結婚を望んでいる。しかしフランス王がこの縁組を拒否した。同じ年の1233年、偽ボードゥアンの陰謀に加担して以来投獄されていたブシャールが釈放された。
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