フェノロサとの出会いとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > フェノロサとの出会いの意味・解説 

フェノロサとの出会い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:32 UTC 版)

狩野芳崖」の記事における「フェノロサとの出会い」の解説

同じ年に生まれ同時代生きた高橋由一が、日本近代洋画最初画家だとすると、近代日本画史の最初を飾るのは芳崖であろう。由一にとってイギリス人画家ワーグマンとの出会い決定的であったのと同様、芳崖にとってはアメリカ人美術史家フェノロサとの出会いが重要であった日本美術高く評価していたフェノロサは、日本画伝統西洋絵画写実空間表現取り入れた新・日本画の創生を芳崖に託した鮮やかな西洋顔料取り入れた仁王捉鬼図(におうそっきず)」は鑑画会大会で一等となり、たちまち、注文をさばききれないほどの人気画家となったフェノロサは、芳崖の仁王捉鬼図を当時総理伊藤博文見せて日本画可能性示し東京美術学校(後の東京藝術大学設立契機とした。 フェノロサ知り合った明治15年1882年)、肺を病み、すでに54歳であった芳崖に残された時間はあまり多くなかったが、さまざまな試行錯誤結果畢生名作悲母観音」が誕生した。この絵の観音像衣文表現などには仏画水墨画描法看取される一方色彩感覚空間把握には西洋画息吹感じられる。芳崖は東京美術学校教官任命されたが、「悲母観音」を書き上げた4日後の1888年11月5日同校開学待たず死去した享年61墓所東京谷中長安寺。芳崖の父の菩提寺である下関覚苑寺には、芳崖の座像がある。

※この「フェノロサとの出会い」の解説は、「狩野芳崖」の解説の一部です。
「フェノロサとの出会い」を含む「狩野芳崖」の記事については、「狩野芳崖」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「フェノロサとの出会い」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フェノロサとの出会い」の関連用語

フェノロサとの出会いのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フェノロサとの出会いのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの狩野芳崖 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS