フェノロサの協力者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 09:04 UTC 版)
明治維新後の明治3年(1870年)9月民部省より準十五等出仕図籍掛となり、地図の作成にあたった。同5年(1872年)からは大蔵省租税寮に出仕、翌年4月開成学校勤務となり、11月からは外国語学校も兼務する。明治8年(1875年)2月から東京大学理学部助手となり、明治14年(1881年)東京大学予備門の助教諭となって、画学教師を務めた。この頃、アーネスト・フェノロサと知り合い、フェノロサに狩野派の画法や古画鑑定法を講じるだけでなく、狩野永悳や狩野芳崖を紹介するなど、フェノロサの日本美術研究の良き協力者となった。明治13年(1880年)の夏休みには、フェノロサに連れられ、関西の古寺社に残る古画を住吉弘賢と共に模写しており、現在ボストン美術館に残る友信の模本はこの時の物だと推測される。 明治17年(1884年)2月に結成されたの鑑画会では、おそらく創立会員7人のうちに入っていたと考えられる。フェノロサが鑑画会の主導権を握った5月から、木挽町にあった起立工商会社の事務所で、フェノロサ、永悳、山名貫義と共に鑑定委員として働いた。翌18年9月の第一回鑑画会に「松下人物」「梅下野鶏」「羅漢」を出品、四等賞を得て金五円を授与された。同年暮れ、文部省御用掛となり、狩野芳崖と共に美術学校設立運動にも挺身する。永悳は芳崖の作風を好まなかったというが、同門の友信は違ったらしく、西郷孤月や岡不崩を芳崖に紹介している。
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