ピート・ハム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/17 17:32 UTC 版)
ピート・ハム Pete Ham |
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出生名 | Peter William Ham |
生誕 | 1947年4月27日 |
出身地 | ![]() |
死没 | 1975年4月24日(27歳没) |
ジャンル | ロック、パワー・ポップ、ポップス |
職業 | ミュージシャン、ソングライター |
担当楽器 | ボーカル、ギター、ピアノ |
活動期間 | 1964年 - 1975年 |
レーベル | アップル、ワーナー・ブラザース、ライコディスク |
共同作業者 | アイヴィーズ、バッドフィンガー |

ピート・ハム(Pete Ham、本名:ピーター・ウィリアム・ハム(Peter William Ham)、1947年4月27日 - 1975年4月24日)は、ウェールズ人の歌手、ソングライター、ギタリスト、キーボーディスト。悲運のロック・グループ「バッドフィンガー」の元リーダーとして知られる。
経歴
生い立ちからデビューまで
1961年ごろに地元でロック・グループ「パンサーズ(The Panthers)」を結成し、度重なる改名とメンバー・チェンジを経て、1965年に「アイヴィーズ(The Iveys)」として再出発した。アイヴィーズはザ・モジョズのマネージャーだったビル・コリンズのマネジメントを得て1966年にロンドンに移り、3年間イギリス国内で巡業を続けた。この頃、ハムが特に作詞・作曲に取り組むようになったのは、コリンズのお蔭でレヴォックス(Revox)の録音機材が使えるようになって刺激を受けたからである。
ザ・キンクスのレイ・デイヴィスがアイヴィーズをプロデュースすることに最初の興味を示している。彼らは1968年にマル・エヴァンズの注目を惹き、多数の自宅でのデモテープによってビートルズの4人からとりわけ創作力を買われるところとなり、ついにアップル・レコードと契約を結んだ[1]。
バッドフィンガー
アイヴィーズはポール・マッカートニーが作詞・作曲した「マジック・クリスチャンのテーマ」のシングル発表に合わせて、バッドフィンガーに改名した。ハムはアイヴィーズ時代の自分達の楽曲に自信を持っていたため、オリジナル曲以外で売り出されることに当初は抵抗した。だが同シングルが世界中でトップテン入りするヒットになり、彼はヒットしそうなシングル曲による飛躍のための効果というものを間もなく認識した。
ハムの創作の苦労は結局のところ報いられた。1970年後半に発売された「嵐の恋」は世界中でトップテン入りの快作となった。さらに彼が書き上げた「デイ・アフター・デイ」(1971年)と「ベイビー・ブルー」(1971年)も世界中でヒットした。彼の創作力はメンバーのトム・エヴァンズと共作した「ウィズアウト・ユー」(1970年)で頂点を極めた。同曲は1972年にニルソンのカバーが世界中のチャートで1位を獲得してからは、史上最高のバラードの定番の一つとしてジャンルを問わずに多数の歌手によってカバーされている。1973年には二ルソンが同曲で第15回グラミー賞の"Best Pop Vocal Performance, Male"を獲得し[2]、ハムとエヴァンズは第18回アイヴァー・ノヴェロ賞の"Best Song Musically and Lyrically"と"The International Hit of the Year by British Writers"を受賞した。
バッドフィンガーがアップルと契約中、ハムはジョージ・ハリスンのアルバム『オール・シングス・マスト・パス』(1970年)やリンゴ・スターのシングル「明日への願い」(1971年)のセッションに加わったが、その他のセッションでも彼の名前は記載されなかった。
1972年、アップル・レコードは崩壊の危機に瀕したので、破竹の勢いに見えたバッドフィンガーはワーナー・ブラザース・レコードに引き抜かれた[1]。
ハムは物腰が柔らかくて気だてが優しく、人前では少しおどけたところもあったが極めて温厚で謙虚だったと評されている。また勤勉さも言及されている[1]。
最期
ワーナー・ブラザースに移籍した1973年から1975年にかけて、バッドフィンガーはバンドの内部に加えて経理やマネジメントの多くの難題に巻き込まれ、音楽活動が振るわなくなった。ハムには1975年までに収入がびた一文も入らなくなり、新マネージャーのスタン・ポリーは音信不通になった。
1975年4月24日、彼は失意の果てにサリーの自宅ガレージで首吊り自殺を遂げ、翌朝、変わり果てた姿を妻のアンによって発見された。前日にエヴァンズと共にウィスキーをあおっていたこともあり、血中アルコール濃度は0.27パーセントだったという。28歳の誕生日を間近に控えての出来事だった。死の前日、自宅に戻る際にエヴァンズに残した最後の言葉は、「気にするな、逃げ出す方法はわかってるから(Don’t worry, I know a way out.)」だった[3]。書き置きはマネージャーのポリーを非難していた。
アン、君を愛してるよ。ブレア、君が好きだよ。僕は人を愛したり、信頼したりしちゃいけない人間なんだろう。これがより良い選択なんだ。ピート。追伸。スタン・ポリーは人でなしの畜生だ。あの野郎を道連れにしてやるさ。
彼は故郷スウォンジーのモリソン墓地に埋葬された。身重のアンは彼の死から1ヵ月後に娘のペトラ・ハム(Petera Ham)を出産した[注釈 1]。
ハムの死は葬り去られた。元ビートルズのメンバーは誰一人として公式に発言せず、アップル・コアもワーナー・ブラザースも公式な声明を出さなかった[1]。
ポリーの顧客だったアーティストの多くが、長年に亘って彼の不正を非難してきた。ポリーはハムの死から10年以上が過ぎてから、横領やマネー・ロンダリングの告発に対して不抗争の答弁を申し立てたが、損害賠償は1件も行なわなかった。
遺産
ハムはしばしばパワー・ポップの最初期の作家の一人に数えられている。最も広く普及した彼の楽曲は、同僚のエヴァンズ[注釈 2]と合作したバラード「ウィズアウト・ユー」である。
遺作になったデモ録音は、『セヴン・パーク・アヴェニュー』(1997年)と『ゴルダーズ・グリーン』(1999年)の2作のCDとして発売された[1]。
66回目の誕生日に当たる2013年4月27日、故郷のスウォンジーに彼を記念するブルー・プラークが設置され、娘のペトラが除幕式を行った[4]。
ディスコグラフィ
バッドフィンガー
ソロ・アルバム
- 『セヴン・パーク・アヴェニュー』 - 7 Park Avenue (1997年)
- 『ゴルダーズ・グリーン』 - Golders Green (1999年)
- The Keyhole Street Demos 1966–67 (2013年)
ゲスト参加した作品など
- 『バングラデシュ・コンサート』 - The Concert for Bangladesh (コンサート、アルバム、映画)
- 『オール・シングス・マスト・パス』 - All Things Must Pass by ジョージ・ハリスン (アルバム)
- 「明日への願い」- "It Don't Come Easy" by リンゴ・スター (シングル)
- 「トライ・サム・バイ・サム」 - "Try Some, Buy Some" by ジョージ・ハリスン (シングル)
- 『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』 - Living in the Material World (クレジットなし[5]) by ジョージ・ハリスン (アルバム)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e Matovina, Dan. Without You: The Tragic Story of Badfinger, Google Books, 2000. Retrieved 10 October 2008
- ^ “www.grammy.com”. 2025年9月17日閲覧。
- ^ Badfinger: a tale of glory and disaster、Paul Du Noyer
- ^ “BBC News - Without You writer Pete Ham of Badfinger's blue plaque”. Bbc.co.uk (2012年11月22日). 2013年9月7日閲覧。
- ^ “Badfinger Biography Pages – Without You:The Tragic Story”. Mindspring.com. 2007年4月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年9月27日閲覧。
外部リンク
固有名詞の分類
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