ピンスクリーンアニメーションを作り始める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 02:33 UTC 版)
「ジャック・ドゥルーアン」の記事における「ピンスクリーンアニメーションを作り始める」の解説
その後、ジャックは16mmのボレックスカメラを手に入れる。また、ピンスクリーンに期待を寄せ、いくつか木版画を行った。木版画はピンスクリーンを試すために理想的だった。ピンスクリーンは木版画家のアレクサンドル・アレクセイエフの発明だったので、つながりがあると感じたのである。ジャックはとても良い感触を得て、人生を変えてくれたように思った。 「NFBのインターンシップ中にピンスクリーンアニメーションに挑戦した目的は何だったのでしょうか?」と、聞かれたジャック・ドゥルーアンは、「それは、私のポートフォリオを作るため。」とはっきり答えた。 当時、ジャックにはアニメーションで表現したいものは見つからなかった。 「アレクセイエフ以外の誰もが使用していなかったピンスクリーンアニメーションに取り組むことは、生意気だった。でも、私には失うものが何も無かったんだ。」 1973年にアレクセイエフのピンスクリーンアニメーションのワークショップに参加した何人かの人々は、アレクセイエフに脅迫されていた。受講生たちは、距離を置いていた。さらに他の受講生たちは、すでにアニメーションとは別の技術を習得しており、ピンスクリーンアニメーションに挑戦するのは危険と感じていた。また、ピンスクリーンアニメーションはアレクサンドル・アレクセイエフの延長線上に在り、それを使って作品を制作したとしても、アレクセイエフの模倣になると結論付けた人もいた。 しかし、ジャックはそれは実証しなければ分からないと考え、ピンスクリーンはアレクセイエフのためだけにあるわけではなく、他の想像力や、芸術に役立つだろうと予想した。 「では、アレクサンドル・アレクセイエフは他の映画製作者を「抑圧」していたのでしょうか?」と、聞かれたジャック・ドゥルーアンはこう答えた。 「多分そうだ。彼にはとにかく、そのような噂があった。彼が登場する映像用に彼が書いた文は、上から話す貴族のような印象があったので、噂通りだったのではないかと思う。しかし、私は1973年の彼のワークショップを受けていないので、受講生のように彼に気を使う必要が無かった。確かに、アレクセイエフは、全ての事柄に意見を持ち、彼の目の前にいた人々と向き合う性格だった。後々彼と知り合い、彼の前で私が何かを言ったとき、彼は私に「それはお前の意見か、それともお前の友人の意見か?」と聞いた。私たちは、いつも彼が私たちをテストしているように感じていた。彼は、一般的な考えを信用していなかった。しかし、助けになったのは、私が初めて彼と知り合ったのは、マインドスケープを観てもらった後であったということだ。私はすでに彼から無視できない立ち位置に置かれていた。そのため、彼と直接的に話すことが出来た。だから、アレクセイエフはマインドスケープの後に私を知っただけなんだ。」 ノーマン・マクラレンはこれらすべての鍵であった。 NFBが良いピンスクリーンを取得するように手配したのはマクラレンだった。アレクサンドル・アレクセイエフは自分の古いピンスクリーンをNFBに売り、新しいスクリーンを作った。ジャックは、アレクセイエフがNFBのためにピンスクリーンを作ったと思っていたが、そうではなかったことをずっと後になって知った。 NFBにあるピンスクリーンは、彼がTableaux d’uneの展覧会の絵を制作したものである。 映画が完成した後に、アレクセイエフと初めて知り合えたのは良かったと思っている。」
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