ピュイローラン卿とのロマンス
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「アンリエット・ド・ロレーヌ」の記事における「ピュイローラン卿とのロマンス」の解説
1629年フランス王ルイ13世の意志薄弱で無定見な弟オルレアン公ガストンが兄王に謀反を企てた結果ナンシーのロレーヌ宮廷に身を寄せたことが契機となり、アンリエットと夫ルイの夫婦関係は完全に破綻した。王弟に付き従ってきた寵臣ピュイローラン卿アントワーヌ・ド・ラージュ(英語版)がアンリエットを夫の見ている前で公然と誘惑したからである。マルシュ地方(フランス語版)の田舎貴族出身の野心家ピュイローランは、ロレーヌ公の妹の愛人どころか妹の事実上の夫のように振る舞いだした。アンリエットはピュイローランの助力で妹のマルグリットをオルレアン公と結婚させることに成功し、2人の婚礼は1632年1月3日にナンシーで、ルイ13世王の同意のないまま挙行された。立場を失ったルイ・ド・ギーズはロレーヌ宮廷を去ってミュンヘンに移り、1631年12月4日に亡くなった。ルイの遺体はサンピニー(英語版)のサント=リュシー教会に安置された。夫妻には子がなかったため、ファルスブール及びリクセム公領は妻アンリエットが相続した。 王弟ガストンはマルグリットとの結婚後まもなく、リシュリュー枢機卿に対する反乱に参加した罪を問われてブリュッセルに亡命する羽目になった。ガストンはこの武装蜂起でリシュリューの排除のみならずフランス王位をも狙う勢いを見せたが、1632年に同盟者のモンモランシー公爵(英語版)の軍勢がカステルノーダリ近郊で国王軍に粉砕され、モンモランシー公が捕虜となると、ガストンが王位を奪う見込みは全くなくなった。ピュイローランは王弟のブリュッセルへの逃避行を指揮し、王弟とルイ13世王の和睦を実現させ、1634年フランスに帰国した。ピュイローランは同年末にリシュリューの親類の女性マルグリット・フィリップ・デュ・カンブ(英語版)と結婚し、公爵位をも与えられたが、1635年リシュリューの命令で逮捕・投獄され、まもなく獄死している。
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