ピトケアン島その後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/10 20:06 UTC 版)
「ピトケアン諸島の歴史」の記事における「ピトケアン島その後」の解説
1808年、アメリカの捕鯨船がたまたまピトケアン島の近海を通った。彼らはピトケアン島に上陸し、そこで男性1名、後は女性が10名、子供が二十数名の集団と出会った。男性の名前はジョン・アダムスと言い、彼のほかにこの島には成人した男性は住んでいなかった。さらに1814年に島にたどり着いたイギリス船によって、この島がバウンティ号の反乱に加わった水兵達が落ち延びてきた島であることが判明した。そこでアダムスに対する尋問が始まったが、判明したことは、この島に辿り着いた水兵とタヒチから連れてきた男性達が互いに殺し合い、アダムスただ一人が生き残ったということであった。この事件はバウンティ号の反乱の後日談として、本国イギリスでは非常にセンセーショナルに伝えられた。アダムスは後に反乱に対する恩赦を与えられ、ピトケアン島で亡くなった。彼の名前は町の名前「アダムスタウン」として残っている。 ピトケアン島は1829年にイギリスの領土であると宣言され、正式にイギリスの植民地となっている。 1831年に島民はイギリスにより、タヒチに移住させられたが、その後再びピトケアン島に戻った。しかし、その後、島民はジョシュア・ヒルという成り上がりのよそ者の圧政に苦しめられることになる。この男はマウイ島に移住しようとした時、移住をマウイ島の知事に断られ、その後、タヒチ島に渡り、ピトケアン島の存在を知り島に渡り、イギリス政府によって派遣された要人だと嘘をつき、支配者気取りでピトケアン島を独裁統治しようとしていた。ヒルの専制政治にあえて異を唱えていた島の移住者の3人のイギリス人ジョン・フン・バフェット、ジョン・ノブス、ジョン・エヴァンスに対して鞭打ちの刑を科したりした。さらに島民に対してもヒルのやり方に逆らう者は鞭打ちにしたりしていた。島民が、通りすがりのイギリス船の船長に、自分達をヒルから解放してほしいと訴えた1837年までの6年間、ヒルはピトケアン島に居続けた。その時以来、島民は自分達がイギリスの正式な構成員であるということを自覚したのである。 ピトケアン島は絶海の孤島ということで交通の便も良くなく、生活の上で色々不便であったため、その後ピトケアン島の住民たちはタヒチや西クリスマス島などへ移住を試みたが、環境に適応できないなどの理由によって、結局その多くがピトケアン島に住みつづけることになった。しかし現在ではノーフォーク島・ニュージーランドに移住する者が多くなって、人口は減少傾向にある。
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