ピサロとの交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 07:50 UTC 版)
この頃までに、スペイン人のコンキスタドールであるフランシスコ・ピサロは、1532年7月にペルー最初の植民都市ピウラを建設した。2か月の行軍の後に、ピサロは兵168人と共にカハマルカに到着し、スペインの駐留に関してアタワルパと会談するため、同じくスペイン人のコンキスタドールであるエルナンド・デ・ソト、ドミニコ会修道士ビセンテ・デ・バルベルデ(英語版)神父及び現地人通訳フェリピロ(英語版)をアタワルパの元へ送った。 バルベルデ神父は通訳を通し、皇帝と臣民のキリスト教改宗を要求し、拒否するならば教会とスペインの敵と考えられると伝えた。アタワルパは「誰の属国にもならない」と言うことによって、彼の領土におけるスペインの駐留を拒否した。使節はピサロの元に戻り、ピサロは後に1532年11月16日のカハマルカの戦い(英語版)と呼ばれるアタワルパ軍に対する奇襲を準備した。 スペインの法に従い、ピサロたちスペイン人はアタワルパが要求を拒否したことで公式にインカの人々に宣戦布告をした。アタワルパがバルベルデ神父に対し、彼らがどんな権威でそのようなことを言うことができるかと冷たく尋ねたとき、神父は聖書を皇帝に勧め、この中の言葉に由来した権威だと答えた。皇帝は聖書を調べ、「なぜこれは喋らない」と尋ね、地面に放り投げた。この行動はインカには書き文字が無かった事によるものだが、結果的にスペイン人に対しインカと戦うための絶好の口実を与えてしまった。神父が神に対する冒涜だと叫ぶ声を合図に、射撃は開始され、2時間にわたり7,000人以上の非武装のインカ兵が鉄剣と騎兵により殺された。この時使われた鉄砲は先込め式銃であったため発射は数斉射に限られ、スペイン人の戦果の大半は剣によるものだった。アタワルパは輿から引き摺り下ろされ、太陽の神殿に投獄された。
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